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2009年12月6日 礼拝メッセージ
『人はうわべで見る』
(新約聖書 マタイの福音書 13章54〜58節)

『それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。』(新約聖書 マタイの福音書 13:54〜58)


イエス様の故郷の人たちは、イエス様が子供の時からよく知っているため、イエス様を人としてのうわべで判断してつまずき、イエス様の語ることばを受け入れることができませんでした。そのように、私たちはよく人のうわべにとらわれて真実を見ることができずにいます。私たちは人の外見、生まれ、能力、富、地位といった外側のことでその人の価値を判断します。しかし、神のものの見方はそれとは全く異なります。


『しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」』(旧約聖書 第一サムエル記 16:7)


神は人の心、すなわち信仰をご覧になります。そのことは聖書の他の箇所にもよく現れています。


『イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』(新約聖書 マタイの福音書 8:5〜10)



最後の言葉は、イエス様が百人隊長の信仰に感動して言われた最高の賛辞です。それに対し、人々の不信仰に対してイエス様が涙を流された場面もあります。(ヨハネ11章35節、ルカ19章41節)


このように神はいつでも人の信仰だけをご覧になります。それはなぜでしょうか。それは、信仰が人の自由意志に基づくものだからです。人は外側の違いを比較して互いの価値を計ろうとしていますが、外側の違いは、神がご自分の必要に応じて与えた賜物の違いであって、価値の違いではありません。また、行いにおいて完全な人は一人もいないので、最初から神は人を行いで採点しないのです。


『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:10〜24)



神の目から見ればすべての人が不完全な罪人で、程度の違いなどありません。人はその程度の違いを問題にしますが、神にとってはすべての人が同じ罪人です。罪人である私たちは自分の力で完全になることはできません。それで、神は私たちを義とするためにイエス・キリストを信じる信仰によって義とする道を与えて下さいました。神は私たちの信仰によって、私たちを義と認めて下さり、イエス様ゆえに完全な者と見なして下さるのです。