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2009年12月6日 礼拝メッセージ
『種まきのたとえ』
(新約聖書 マタイの福音書 13章1〜23節)

群衆に例え話をされたイエス様に、弟子たちはなぜダイレクトに語らず、たとえで話されるのか尋ねました。するとイエス様は、彼らは聞いても悟らないからだと言われます。(新約聖書 マタイの福音書 13:1〜23)


さて、私たちは、御言葉を聞いてほんとうに悟っていると言えるでしょうか。もし悟っていないのなら、それは頭の良し悪しとは関係ありません。私たちが間違ったメガネを通して御言葉を聞くからです。人生において、心が苦しくなったり、悩んだりするのも、この間違ったメガネを通して物事を見ているからです。


なぜ私たちは間違ったメガネをかけるに至ったのか、それを説明します。人の心は本来神の愛で満たされていました。しかし、アダムとエバが罪を犯して以来、神は人の心を離れ、愛の供給がストップしてしまいました。そこで、人は心を満たすために人から愛を求めるようになりました。しかし、人から愛されるためには「行ない」という条件が必要だということを、親からたたきこまれます。子は親が喜ぶことをすると褒められ、親の意に反すると褒められず、ほかの子と比較されて育ちます。そういったことを通して、人の幸せは良い行いをすることで得られ、反対に、不幸は悪い行いのせいだと思い込みます。つまり、「行ない=人の価値」という思い込みこそが、間違ったメガネです。


幸せは行いによるのではないのなら、何によるのでしょうか。それは、間違ったメガネをはずすことです。神が私たちを無条件に愛しておられるということ、私たちの罪はイエス・キリストが十字架で代わりに負ってくださったので、私たちはそれを信じるだけでゆるされるということ、イエス・キリストが復活され、私たちも永遠のいのちをいただいていること、この福音は、「行い=価値」というメガネをかけていては信じることはできません。このメガネをはずして福音を受け入れるとき、人の心は再び神の愛に満たされるのです。


よく洗礼を受ける前に、「こんな私がクリスチャンになっていいのか」という方がいます。これは、「行い=価値」というメガネをかけているために出る質問です。良い行いをするのがクリスチャンだと思い込んでいるのです。クリスチャンになるには、イエス・キリストを信じる、それだけです。行いは、信じた結果、自然に変えられていくのです。自分の力でよい行いをしようと思えばできますが、それは間違ったメガネに基づいています。それとは違う方法で神によって変えられるのです。


クリスチャンである私たちは、「行い=価値」というこの世のメガネでみるとあり得ない福音を信じることができました。それは神の力です。それならば、そこから先も神がくれたメガネをかけつづけなければなりません。再びこの世のメガネをかけると、クリスチャン生活はつらいものとなります。自分の力で良い行いをして認められなければならないという思い込みの世界へと逆戻りするからです。


『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:1)


自分をささげるとは、具体的に何をするのでしょうか?立派な行いでしょうか?そうではありません。続けてこうあります。


『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)


自分をささげることは、神の思いを知ることだとあります。この世と調子を合わせる、すなわちこの世のメガネをかけていては、神の思いを知ることはできません。メガネを変えなければ、自分は変わりません。


『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:3)


思い上がってはならないとありますが、思い上がるのは比較するからです。比較するのはこの世のメガネをかけているからです。まずは比較することをやめましょう。


『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:4,5)


人と比較すれば、思い上がりもするし、自分はダメだ、価値がないと思ったりもします。しかし、それが全く間違った考え方であることを、体のたとえで説明しています。私たちの体の各器官はそれ一つでは機能できず、相互に助け合って機能し、どこかが弱くなればそれを別の器官が補います。それと同じように、人と人も、役割がそれぞれ違い、互いに助け合い、補いあって生きており、価値のない人などいません。


人はこの世のメガネを通してものを見て、考え、行動するのですが、このメガネが働かない行動をすることがあります。それは、とっさの出来事のときにとる行動です。たとえば、何かにつまずいて転んだ時、とっさに手をついて身を守ります。その時は何も考えていないでしょう。また、誰かが川でおぼれているのを見て、とっさに自分も飛び込んで助けようとして命を落とす人がいます。見ず知らずの人なのに、何の報酬もないのに、自分の命をも犠牲にしかねないのに、そんなことは何も考えず、とっさに行動してしまうのです。また、目の前で子供が車にはねられそうになったら、とっさに助けるでしょう。火事の現場で人を助けるために命を落とす消防隊員もたくさんいます。なぜ、人はそういった行動をするのか、これは論理的な説明のつかないものです。上の聖句にあるように、ひとついのちでつながっているからとしか言えません。


人を苦しめるこの世のメガネを、神は試練を通して壊そうとされます。人はこの世のメガネによって富に価値を置いています。また、見えるものを頼り、自分で何とかしようとします。神は人が頼りにするものを取り去ることで、その人を砕きます。それが試練です。ですから、試練にあうときは、不幸が来たのではありません。私たちの苦しみの根源である、間違ったメガネに気付き、それをはずして解放されるチャンスなのです。


『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:10)


この世のメガネから解放され、神が与えてくださるメガネで生きるとき、私たちは自然にこのように生きていくようにされるのです。