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2009年11月29日 礼拝メッセージ
『肉に属する、神に属する』
(新約聖書 マタイの福音書 12章38〜50節)

『そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:38〜45)



律法学者たちは、イエス様にしるしを求めました。しかし、イエス様はご自分が救い主であることのしるしは、旧約聖書に記されているヨナにあらわされているから、彼らのためにあえて奇蹟を行わないことを言われました。また、これも旧約聖書に記されている話ですが、ソロモンの知恵を求めて来た南の女王のように、イエス様の元に知恵(神のことば)を求めて来ないのかと言われました。


私たちは律法学者たちと同じように、どこか神の奇蹟や預言といった、見えるところの刺激ばかり求め、それが与えられることが信仰だと思うことがないでしょうか。イエス様は、そういったことよりも御言葉を求めなさいと言われます。もちろん病の癒し等の奇蹟を求めるのは正しいことですが、もっと大事なことがあるとイエス様は言われるのです。


さらにイエス様は、ご自分がせっかく人から汚れた霊を追い出し、その心を掃除しても、その人が御言葉よりもしるしばかりを求めるなら、以前よりももっと悪い状態になると言われます。私たちが求めるべきは、イエス様が神であるというしるしとか、自分が神から愛されているというしるしではなく、神のことばであり、罪をゆるしていただくことです。


『天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:50)


誰かが特別というのではなく、神の御心を行なう者はみな神の家族だとイエス様は言われました。神の御心を行うとはどういう事かを説明するために、二つの生き方(神に属する(神の御心を行う)生き方と、肉に属する生き方を説明します。


人は例外なくみなよく思われたいと思っています。子どもが親の言うことを聞くのも、私たちが仕事をがんばるのも、良い車に乗ろうとするのも、女性がお化粧をするのも、みなよく思われたいからです。


クリスチャンの場合、よく思われるために良い行いに関する御言葉を実行しようとします。クリスチャンでなくても、良い行いをする人はたくさんいます。御言葉を実行することは良いのですが、その動機が問題です。そして、よく思われるために自分の罪を隠し、さらに人と比較をしてがんばります。そしてほめられるとまたほめられるために良い行いをしてがんばるという循環になります。ほめられるためにがんばりつづけ、本当の自分を隠しつづけることで心はつらくなります。心にはいつもねたみや争い、さばき合いがあり、この生き方にはゴールがありません。


この生き方に伴うつらさを忘れるために、人はさまざまなもので心を満たそうとします。しかし、どんなものも一時しのぎにしかなりません。根本的な解決は、神の前に心を開いて、自分の罪を悔い改め、ゆるしていただくことです。その結果、これまでと違った良い循環が始まります。


罪を悔い改めると、神はゆるしてくださいます。そのゆるしを通して、神の愛を体験し、感謝の思いから、御言葉を実行したくなります。御言葉を実行すると当然、自分の弱さや罪が見えてきますが、それはもはや隠す必要はなく、そのまま神の前に差し出すと、罪はゆるされ、弱さは恵みとなります。これが神に属する生き方です。


私たちが求めるべきものは、しるしではなく神のゆるしです。そこから神の恵みによる良い循環をスタートさせましょう。