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2009年11月22日 礼拝メッセージ
『良い倉と悪い倉』
(新約聖書 マタイの福音書 12章22〜37節)

『そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:22〜24)


イエス様が人を癒すと、群衆は驚嘆してほめたたえる一方、パリサイ人たちは批判します。同じ物事が、どういう見方をするかによって私たちにとって全く違うことになる。こういったことがいつもあります。間違った見方をすれば、間違った方向へ導かれます。正しい方向へ導かれるには、正しい物の見方をする必要があるのです。パリサイ人たちは重大な過ちを犯していました。そのことを危惧したイエス様は、次のように警告しています。


『イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。』(新約聖書 マタイの福音書 12:25〜32)


パリサイ人というのは、当時の信仰の指導者にあたる人々です。そんな彼らは、人々のリーダーとして尊敬を集める自分たちの立場が、イエス様によっておびやかされることを恐れ、イエス様の働きを神の働きだとわかっていながら、敢えて反対し、神のわざを悪霊のわざだと言い張り、イエス様をかたくなに拒否しました。これは、罪の中でもゆるされない罪とされる「聖霊に逆らう罪」です。


聖霊は私たちの心に働きかけ、悔い改めを促し、神との正しい関係へと導きます。その働きを拒み続けるなら、私たちは悔い改めのチャンスを失い、神との関係が永遠に断絶してしまうのです。だからこそ、イエス様はここでパリサイ人たちに厳しく警告しています。


『木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。』(新約聖書 マタイの福音書 12:33,34)


パリサイ人たちは、イエス様の警告に対して、自分たちは少々言いすぎたとか、冗談だとか、言い訳をしようとしたかもしれません。そういった心理にもイエス様は先手を打ち、このように言われました。実とは、言葉のことです。失言したとか冗談だとか言ったとしても、私たちの心にあるものが言葉として出てくるのであり、言葉は語る人の実態を表すのです。ですから、神は語る言葉に基づいて私たちを判断し、さばかれます。


『良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:35〜37)


人には、良い倉と悪い倉、二つの倉があります。良い倉は神が備えた倉で、神のことばが入っています。悪い倉は人が罪を犯した結果生まれ、神のことばではないものがつまっています。そして人は、どちらの倉から言葉を出すか、選択でき、良い人は良い倉から選んで言葉を語るというのです。このように、神は私たちの言葉に注目しておられるのですが、私たちにとって言葉はどんなものなのでしょうか。


1.意志として認められる

私たちが語る言葉は私たちの意志として神に認められます。言葉は私たちの行動の原動力となり、人生をその方向へ導きます。自分はダメだと言い続ければそのようになり、子供に対しても否定的な言葉で育てれば、そのように育つのです。


2.自分に返ってくる

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1,2)

人をさばけば、自分もさばかれます。民主党と自民党の攻防はまさにそれと同じです。民主党がかつて自民党に追及していたことが、今度は逆に自民党から追及されているのです。ゴルフの諸見里しのぶ選手は、かつて実力がありながら、精神的な浮き沈みが多く、それがそのままゴルフに反映して、調子が安定しませんでした。しかし、今年は調子が安定し、快進撃を続けています。それには理由があります。彼女は次の3つのことを実行しました。@不平不満を言わない。A人の悪口を言わない。B自分の弱さと向き合い、受け入れる。(感謝するとも言い換えられます)これらはみな聖書の教えです。不平不満、悪口を語れば、私たちの心は悪いもので満たされ、神を見失い、不安になります。また、自分の弱さを隠さず、正直に神の前に差し出すとき、それが恵みであることに気付きます。


3.心の食事となる

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

私たちの心は言葉によって食事をします。食事をするなら、おいしい食事のほうが良いに決まっています。おいしい言葉とは、私たちを無条件で愛してくれている神のことばです。その最高の食事を知らないと、人は、ほかに食事を探さなければなりません。しかし、私たちは神のことばを祈り、賛美、聖書を読むことで食べることができます。私たちは、いつでもおいしい神のことばを食物とし、良い倉から良い言葉を出す者として歩んでいきましょう。