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2009年11月15日 礼拝メッセージ
『怒りの方程式』
(新約聖書 マタイの福音書 12章1節〜21節)

『そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:1〜8)


神が定めた律法の中に、安息日を守ることがあります。そのほかの律法と同じように、パリサイ人たちは安息日についても、一切の労働をしてはいけないとし、何が労働かを事細かに定めました。そして、自分たちで決めた細則を守ることが至上となり、それを守る人は神に受け入れられ、守らない人は受け入れられないと判断していました。この場面でも、彼らはイエス様の弟子たちを自分たちのルールに照らし合わせてさばきました。そんな彼らに対して、イエス様は神が定めた律法の本質を正しく理解するよう促します。神の律法の目的は、神を愛し、人を愛することです。神を愛し、人を愛するために必要なことが律法として私たちに与えられているのです。ところが、パリサイ人たちの目的は、神を愛し、人を愛することからかけ離れ、自分が立派だと評価されることになっていました。


『イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。 』(新約聖書 マタイの福音書 12:9〜14)


パリサイ人は、なおもイエス様を訴えるために質問をします。ここでもイエス様は、安息日に人を癒すことは、神の律法の本来の目的になんら反しないどころか、むしろ人を助けることは神の律法の目的にかなっていることを示されます。私たちもパリサイ人たちのように、自分のルールを定め、それに自分や人を当てはめて評価しているのではないでしょうか。それによって問題が生ます。パリサイ人たちは、これらのエピソードを通して、イエス様に対する怒りが頂点に達し、イエス様を殺す計画を建てます。


ここで、怒りのメカニズムを通して、私たちの心の内に起こっていることを見てみましょう。怒りがどのように起こるのか、その方程式は単純で、次のようになります。「見返りを期待して行動する」→「期待した見返りが返ってこない」=「怒り」となります。私たちは自分のした仕事に見合った報酬を求め、それが得られないと不満に思います。人間関係においても、誰かのためにこれだけのことをしてあげたのだから、相手も自分に返してほしいと要求するのです。創世記に登場するカインは、神に認めてもらうためにささげ物を用意しました。しかし、神はカインの捧げ物には目を留められず、弟アベルの捧げ物に目を留められました。それでカインは怒ります。パリサイ人たちも、上の個所で、安息日の細則を守っていることで評価されると思ったが、自分たちの主張が覆され、怒るといった具合です。


ここでわかるのは、人が怒り、苦しくなるのは、見返りを期待するからだということです。期待に応えない相手が悪いのではなく、見返りを求める自分の問題なのです。ではなぜ人は見返りを要求するのでしょうか。神は人を愛がなければ生きられないように造られ、最初から、神の愛で人の心を満タンにしていました。しかし、人が罪を犯したことで、神の愛は人の心から離れ去ってしまいました。愛されなくなったことで、人は、その原因を考え、自分がその原因をクリアすれば再び愛されると思い、自分の作った条件をクリアしようと励むようになりました。それが、見返りを期待する行動の始まりです。また、自分の非を認めると愛されないと思い、人のせいにするようにもなりました。


神はイエス・キリストの十字架によって、この問題の解決を与えてくださいました。神は見返りを期待せずに、無条件で人の罪をゆるし、人の代わりに罰を受けられました。私たちはこの愛を体験することによって、再び心に神の愛を満たしていただけるのです。神の愛を心に注がれてはじめて、見返りを期待せずに(すなわち神の愛によって)人を愛することができるようになります。世の中においての「愛」とは、見返りを期待する愛ですが、神における「愛」とは、見返りを期待しない、条件をつけない愛です。これから私たちが人を愛するとき、相手に対する条件をどこまで減らせるかというチャレンジになります。神は私たちを受け入れてくださるのに、何の条件も付けられませんでした。自分が無条件でゆるされたということをよく考えたなら、相手に対する見方が変わるでしょう。


『イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」 』(新約聖書 マタイの福音書 12:15〜21)


イエス様がいやしについて誰にも話すなと注意されたのは、イエス様の人々に対する目的がいやしではなく、罪のゆるしであり、人々がいやしや奇蹟ばかりに注目することを懸念されたからです。イエス様についての預言が成就するためとありますが、ここからも、神の約束は必ず守られるということがわかります。