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2009年11月8日 礼拝メッセージ
『疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい』
(新約聖書 マタイの福音書 10章40節〜11章30節)

『あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」』(新約聖書 マタイの福音書 10:40〜42)  


ここに一つの方程式があります。それは、人にすることは神にすることだということです。私たちが人に対してとる行動は、そのまま神に対してしていることになります。そう考えると、人に対してやさしくなるのではないでしょうか。


『イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」』(新約聖書 マタイの福音書 11:1〜6)


つまずきはなぜ起こるのでしょうか。それは自分の知識や願望の中に相手を閉じ込めようとして、それができない時に起こります。神であるイエス・キリストは人の経験、知識、願望を越えた方です。ですから、神である方を自分の考えの中に閉じ込めようとした人たちはつまずきました。私たちも神を自分の知識、経験に閉じ込めようとすればするほど、わからなくなります。私たちはただ信じる必要があります。これは人に対しても同じ事が言えます。子どもに対しても自分の考えに閉じ込めようとするのではなく、信じてあげる必要があります。

『この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。』(新約聖書 マタイの福音書 11:7〜14)


この地上でバプテスマのヨハネにまさる人はいないとイエス様は言われました。なおかつ、そのバプテスマのヨハネよりも天の御国の一番小さい者が偉大だと言われました。これは、神の考え方が人の考え方と全く異なることを示しています。
アダムとエバが罪を犯して以来、神は人の心を離れ、人は生まれつき神を知ることがありません。神の愛で満たされるべき私たちの心はいつも空腹状態で、それを人の愛で満たそうとしています。人の愛を得るために、人は自分を他人と比較してより愛されるように努めるのです。それが世の中のあり方です。


神の国とは、100%心が満たされている所です。満腹であれば、他の人が何を食べようと気になりません。ですから、比較することもないのです。ではなぜ、クリスチャンになっても空腹になることがあるのでしょうか。それは、これまでに空腹を満たすために食べた間違ったゴミが神の愛の消化を妨げているからです。


そのゴミは、私たちの罪です。愛されるために隠してきたありのままの汚い部分、その罪を神に差し出せばゆるされ、ゴミが消え、神の愛に満たされてゆきます。これらのゴミは試練によってもあらわにされ、私たちはつらい思いをしますが、神にゆるされ、神の愛に満たされる良い機会となります。


『耳のある者は聞きなさい。この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」』(新約聖書 マタイの福音書 11:15〜19)


人は人が何をやっても批判します。子どもたちにたとえて言われているのは、子どもたちが好き勝手なことをするように、私たちに明確なものさしがないということです。しかし、人の正しさは行いによって証しされます。


『それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。・・・」』(新約聖書 マタイの福音書 11:20〜24)


イエス様ご自身が福音を語り、悔い改めを促しても悔い改めなかった町々がありました。悔い改めなかった人々は、裁きを免れないことをここで言われています。


『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。…それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。』(新約聖書 マタイの福音書 11:25〜27)


幼子というのは素直に信じる人のことです。神のことは自分の知識で知ることはできません。ただ信じることによってのみ、人は神に近づくことができます。また、救いは神の領域であり、神がご自身を知らせる人が神を知ることができるのです。


『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』(新約聖書 マタイの福音書 11:28〜30)


人が求める無条件の愛とは、神からしか与えられないものです。しかし、人は神から離れて世の中からそれを求めようとします。しかし、世の中は常に条件を求めます。その条件をクリアして望む愛を得ようとして人は疲れるのです。また、天国に入るためにこれをクリアしなければならないという律法が人の重荷となります。しかし、そもそも律法はクリアできない人を罪に定めるものではなく、天国に入れないのでもなく、人が自分の罪に気づき、神の元へ行くための恵みの入口となるものなのです。


『こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:24)


私たちクリスチャンにとって、聖書の言葉は私たちをさばき、重荷となるものではなく、罪に気づき、罪から解放されるためのものです。神は、ねばならないという律法的な考え方から私たちを自由にされます。