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2009年11月1日 礼拝メッセージ
『信仰と迫害』
(新約聖書 マタイの福音書 10章18〜39節)

イエス様は弟子たちを伝道に遣わすにあたり、必ずあう迫害についても教えて言われました。

『また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。』(新約聖書 マタイの福音書 10:18〜20)


何を話そうかと心配する必要がないのは、救われた者の内には御霊が住んでおられるからです。私たちの内に御霊がおられることは、イエス様が主であると告白できるかによって確認できます。(参照:Tコリント12章3節)


『兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。』(新約聖書 マタイの福音書 10:21〜22)


神に従う真実な生き方は、この世の生き方と相反するので、迫害されるということです。この世の生き方の基準は、人からどう思われるかです。しばしば人は、その意味を考えずに周りがするからという理由で行動します。聖書に従ってその意味を考えて行動するとき、摩擦が起きることがあるでしょう。


『弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。』(新約聖書 マタイの福音書 10:24〜26)


「家長」とはイエス様のことで、「ベルゼブル」とは悪霊のかしら、「家族の者」はイエス様を信じる人たちのことです。イエス様は人々から迫害を受け、ベルゼブルとまで言われ馬鹿にされました。ですから、イエス様を信じる人たちもなおさら迫害され、馬鹿にされるだろうとイエス様は言われます。


『わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 10:27)


イエス様が弟子たちにひそかに教えた福音を、公に大胆に語り、伝道しなさいという意味です。

『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。』(新約聖書 マタイの福音書 10:28〜29)


人のいのちは、体と魂とからなっています。神を信じる人の魂には御霊が住んでおられます。魂は神の領域であり、誰も触れることはできません。だから人を恐れるなと言われるのです。


『また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』(新約聖書 マタイの福音書 10:30〜31)


私たちは自分の髪の毛の本数など知る由もありません。しかし神はご存じだというのは、神が私たち以上に私たちのことを知っておられるということを示しています。それはつまり、私たちは自分よりも神のほうがはるかに自分にとって良い道をご存じで、そこへ導かれるということです。ですから、神にゆだねることが私たちにとって最良の道です。


『ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。』(新約聖書 マタイの福音書 10:32〜33)


私たちがイエス様を否定するなら、イエス様も私たちを否定するといわれます。人にどう思われるかと恐れないで、イエス様を信じていることを告白していきましょう。


『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』(新約聖書 マタイの福音書 10:34〜39)



クリスチャンになる時、家族の反対にあった方も多勢いるでしょう。クリスチャンである限り、私たちは何かしらの迫害を受けます。悪口を言われたり、仲間はずれにあったり、さらには死ぬ目にあうこともあるかもしれません。私たちが背負う自分の十字架とは、こういった迫害のことです。迫害にあって、神よりも人の目を気にして人からよく思われようとすると、その人は信仰を失い、ひいては永遠のいのちを失います。しかし、人の目よりも神を見上げて信仰を保つなら、その人はいのちを得ます。


迫害を受けることは、人の目を恐れることとの戦いといえるでしょう。私たちはなぜ人の目を恐れ、人に気に入られようとしてしまうのでしょうか。人の心は、もともと神と共にあり、神の守りの中で安定していました。しかし、罪が入り、神が離れて行き、心は不安定になりました。神がおられない心にはいつも不安があり、弱い状態です。神の守りがないので常に雨風にさらされ、人の言葉もダイレクトに入ってきます。そのため、自分が傷つかないように守るため、自己防衛するようになりました。人に合わせることもその一つです。また、攻撃されそうになると、逆に人を攻撃するというパターンもよく見られます。ですから、怒ったりいらだったりしている人ほど不安もまた強いと言えるでしょう。


パウロは自分の体のことや迫害のことで、不安を持っていました。人は誰しも病になれば不安になり、人からよくないことを言われたら不安になります。それが本当の私たちの姿です。この不安の解決について、不安をよく体験したパウロ自身がこう書いています。


『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 第二コリント人への手紙 12:9)


不安で弱い自分を神の前に認め、神に助けを求めて祈るなら、神が私たちを守り、支えとなってくださいます。それが私たちの強さとなるのです。