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2009年10月25日 礼拝メッセージ
『弟子たちへの教訓』
(新約聖書 マタイの福音書 10章1〜17節)

『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』(新約聖書 マタイの福音書 10:1)


この箇所は、弟子たちを伝道に遣わすにあたって、イエス様が教えて言われた場面です。まずイエス様は弟子たちに権威を与えました。権威は力とは違います。弟子たちが病をいやす力を持ったのではなく、神から与えられた権威によっていやすようにされました。


『イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 10:5,6)


イスラエルの家とは、救い主を待ち望んでいた人々のことです。ここで神は、私たちに優先順位があることを教えています。私たちにとって優先順位は、1番に神、2番に家族、3番に仕事等です。家庭の中でも1番は夫あるいは妻(未婚者にとっては親)です。


『行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 10:7,8)


イエス様は『天の御国が近づいた』と伝えなさいと言われました。人にとって普遍的な問題である心の問題の解決の道はそこにあります。人はみな「愛されたい」という思いを持っています。しかしそれは簡単に満たされることはなく、心は空腹になり、イライラします。何とか心を満たすために、仕事を頑張ったり、酒等でごまかしたり、世の中のカウンセリング手法を用いたりしますが、それは根本的解決ではありません。


心の問題の解決には、なぜ愛されたい欲求があるのかを知る必要があります。人は神によってちりから体を作られ、神の息を吹き込まれて霊を持った人となりました。そして、神は人にただ一つの命令を守るよう言われました。ほかのどの木の実も食べてよいが、善悪を知る知識の木の実だけは食べると死ぬので食べてはいけないという命令でした。しかし、人は命令を守らず、食べてしまいました。これが罪の始まりです。罪とは、神の言われたことを守らないことです。


木の実を食べたアダムとエバは死にませんでした。神が言った死とは、肉体の死ではなく、霊的な死のことだったのです。罪によって、それまで神の愛に満たされていた彼らの霊は、神との関係を断ち切られて、霊的に死んだ状態となってしまったのです。彼らは常に愛されていたので、自分は愛されているだろうかと心配する必要がありませんでしたが、神の愛を失い、今度は自分で探さなくてはならなくなったのです。


また、アダムとエバは自分たちが裸であることに気付き、身をおおって隠れたとあります。これは、自分の外観、人の目が気になるということです。また、二人は自分たちが罪を犯したのを、人のせいにしました。それは自分がよく思われるためです。いずれも神との関係が断たれたことを如実に表しています。人はそこから神との関係を失い、その子孫である私たちも、神との関係を断たれた状態で生まれました。そんな人間に、神は関係回復の道を与えられました。それはイエス・キリストを信じるという道であり、それが心の問題の解決の道なのです。


イエス・キリストを信じたクリスチャンであっても、生まれながらの古い習慣に騙され、愛されていないのではないか、という思いに欺かれてしまうことがありますが、イエス・キリストを信じて関係が回復され、もはや愛を探し求めなくても、イエス様が十字架で私たちの罪の身代りに死んでくださったほどの愛を与えられていることを確認しましょう。


『どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。』(新約聖書 マタイの福音書 10:11〜15)


イエス・キリストを信じない人は罰を受けることが示されています。裏を返せば、救いはイエス・キリストを信じることによるということです。世の宗教は、良い行いによる救いを説きますが、それは良い行いによる達成感を利用しているだけです。しかし、救いは行いや知恵によるものではありません。


『いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。』(新約聖書 マタイの福音書 10:16,17)


神のことばに対しては素直に受け入れ、世の中に対しては知恵を用いる必要があります。世の中において神のことばを行うにあたっても、知恵が必要になります。


『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:5〜7)


問題解決のために、神に祈り求めて知恵をいただきながら、事を行っていくことを神は私たちに教えています。