ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2009年10月18日 礼拝メッセージ
『信仰とは』
(新約聖書 マタイの福音書 9章18節)

『イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。』(新約聖書 マタイの福音書 9:18〜22)


長血を患っていた女性は、イエス様がいやしてくださると信じただけでなく、実際にイエス様のもとへ行き、イエス様に触れました。信仰とは、心に願うだけではなく、行動に移すことで認められます。女性がいやされたのは、イエス様のところへ実際に行ったからでした。次の聖句からも、信仰には行動を伴うことがわかります。


『それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:17)

『たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:26)

『イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。』(新約聖書 マタイの福音書 9:23〜25)


会堂管理者の娘がいやされた理由も、先の女性同様、娘のために父親がイエス様を信じてイエス様のところへ行き、告白したからでした。この後にも盲人が信じて告白していやされる場面が登場します。これらのエピソードを通して、信じて行動することの大切さがわかります。中でも最も大切な行動は、罪を告白することです。神を信じる人は、自然にそれをするようになります。神のもとへ行き、罪を告白すればゆるされ、助けを受けます。そうして私たちは生きた神との交わりができるようになります。


『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:10)


信仰とは何かを整理すると次のようになります。まず、スタートは、イエス・キリストは救い主であると信じることです。また、イエス様が病をいやしてくださる、問題を解決してくださる等といったことを信じ、それを告白することへと進みます。


『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:24)


ただ、祈っても求めた通りに受けられない時があります。それは神が祈りを聞いておられないのではなく、あなたが求めたよりももっとあなたにとって良い物を与えようとしておられるからです。私たちの思いよりも神の思いはより深く、私たちへの愛に基づいて必要なものを与えてくださいます。ですから、祈りの結果は神に信頼して、求めていきましょう。