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2009年10月11日 礼拝メッセージ
『新しい皮袋』
(新約聖書 マタイの福音書 9章1〜17節)

『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。』(新約聖書 マタイの福音書 9:1〜8)


同じエピソードを記した別の個所には、病人を連れてきた人たちは、イエス様のところに近づくことができず、家の屋根をはがして病人を寝たままイエス様のところに吊りおろしたと書いてあります。屋根をはがしてまでイエス様のもとに病人を連れてきた人たちの大胆な信仰を見て、イエス様は罪のゆるしを宣言されました。それを聞いていた律法学者たちは、イエス様を人間と見ていたので、罪のゆるしを宣言するのは神の権威を汚す行為だと反感を持ちました。また、人間的考えでは、罪がゆるされたと口で言うことのほうがたやすく、誰でもできることであり、病がいやされることのほうが難しいと思われます。そういった人々の心を見抜いたイエス様は、神の権威を見せるために、病の癒しも行われました。


『イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 9:9〜13)


この場面でイエス様は当時、社会的に罪人と呼ばれる人たちと食事を共にしました。それを見てパリサイ人たちはつまずきます。しかしイエス様は、ご自分がこの世に来られた目的、罪のゆるしのために、あえて自分を罪人と自覚する人と交わりました。多くの罪をゆるされた人は、多く神を愛するようになります。真に悔い改め、ゆるされた者は神のために生きるようになり、認められるためではなくただ感謝によってよい行いをするようになります。


聖書には、大きく分けて二種類のことが書いてあります。一つは私たちに対する命令で、もう一つは私たちに対する約束です。私たちは、罪のことをどうとらえるでしょうか。聖書に書いてある命令を実行できないことだと考えるでしょう。確かにそれは不従順の罪です。しかし、神が問題にするのは、聖書に書いてある神の約束を信じることができないこと、不信仰の罪です。聖書の中で、イエス様が感動される場面があります。それは人の信仰を見たときです。また、イエス様が涙を流し、悲しまれる場面があります。それは、人の不信仰を見たときです。自分の行いを見ると、さほど罪を犯していると感じない人もいるかもしれません。しかし、神の約束を信じているかどうかという観点で見ると、自分の不信仰に気付くのではないでしょうか。それが神を悲しませることなのです。


『するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」』(新約聖書 マタイの福音書 9:14〜17)


新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる。当時のぶどう酒造りの常識を用いて、イエス様は説明されました。パリサイ人たちは、儀式によって神に近づくことができるのであって、儀式を守ることが重要だと思っていました。断食もその儀式の一つだととらえていたので、断食をおこなわないイエス様の弟子たちを見てつまずきます。断食にしてもそのほかの行いにしても、本来の目的がありますが、彼らはそれを見失って、儀式に心をとらわれてしまっていました。イエス様はそれを古い皮袋と表現されました。


人は自分の気持ちへの共感を求めています。そして、人間関係を築くとき、いきなり自分の気持ちを表すことをせず、まず儀式から入ります。挨拶だけの関係からこの人は大丈夫かと探り、少しずつ気持ちを表し始めます。そのうちに自分の思うような反応を得られない時が出てきます。それでも共感したいので妥協が始まります。夫婦であっても、相手がいつも自分の気持ちを受け入れてくれるということはなく、本当に自分の気持ちを出せる人は一生のうち見つかるかどうかというところです。


神との関係は、これとはまったく違います。いきなり自分の内側をさらけ出してよいのです。この交わり方が新しい皮袋です。神は私たちと交わるために、よい行いという代償など求めていません。自分の罪をそのまま神の前にもっていき、ゆるされることで、神との関係が生まれます。それが神の恵みです。だからと言って罪を犯してよいということではありません。聖書には罪と戦えと書いてあります。罪と戦うことで、罪に気付くからです。罪ゆるされた人は神の恵みを知り、真の喜びを知り、自らよい行いをしようとします。世の中において、良い行いをするとき、見返りを求めることが多いでしょう。しかし、罪をゆるされればゆるされるほど、イエス様の十字架の愛を知り、見返りのためではなく、感謝によってよい行いをしたいと願うようになるのです。