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2009年10月4日 礼拝メッセージ
『人の子には枕する所がない』
(新約聖書 マタイの福音書 8章14〜34節)

『それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』(新約聖書 マタイの福音書 8:14〜17)

この個所から、神様は私たちの罪をゆるすだけでなく、病を癒してくださることがわかります。ですから、病の癒しをも大いに求めてよいのです。


『そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」』(新約聖書 マタイの福音書 8:18〜20)


「人の子」には二つの意味があります。一つは、弱さをもった人間の子。もう一つは「救い主」を意味します。イエス様はここで、ご自分が救い主であることを示して「人の子」と言われました。ここに出てくる律法学者は、イエス様についていくことで、人々から評価されることによって、自分の地位がより安定することを求めて、イエス様のところに来ました。イエス様を利用しようとしていたのです。そんな彼に対し、イエス様は、自分についてきても、彼が望むような安定(富、名声)はないということを言われたのです。しかし、罪のゆるしを求めてイエス様について行く人には、まことの平安が与えられます。


『また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」』(新約聖書 マタイの福音書 8:21,22)


親の葬儀はこの地上ではどのような仕事よりも第一に優先されるものです。弟子になりたいというのなら、何よりも神のことばを第一に優先するものだということを言っています。これは誰にでもできることではありませんが、日々の生活の中で、私たちは神を信じる者として、神のことばをどれくらい優先しているでしょうか。人は愛する人との約束を優先させます。神を愛する人は、神のことばを優先させます。


『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(新約聖書 マタイの福音書 8:23〜27)


26節のことばを通して、イエス様が人を見るときの物差しが、「信仰」であることがわかります。神の関心事は、私たちがどれだけ神を信頼しているかということです。だから、イエス様は百人隊長のことばに感動し、弟子たちの不信仰な言葉に涙したのです。信仰は知識とは関係ありません。信仰は試練を通して育ちます。


『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜4)


私たちは人生において様々な問題にぶつかります。その一つ一つに神は答えを用意しておられます。問題にぶつかったときに、心配するのをやめて神に信頼することを選択するとき、忍耐が生じ、希望を与えられ、まことの平安を手にします。それが信仰の成長です。神は私たちを愛しておられるので、問題を与え、そのなかで私たちが神に信頼し、信仰が成長するように導かれます。


『それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。』(新約聖書 マタイの福音書 8:28〜34)



注目したいのは、悪霊につかれた二人の人がいやされたことをきいた町中の人たちの反応です。二人の人がいやされたのですから、自分たちもいやしてもらおうと思うのではないでしょうか。しかし、町中の人たちがイエス様にこの地から出ていってほしいと願ったのです。それはなぜでしょうか。


「悪霊」を「罪」と読み替えるとわかりやすくなります。人を苦しめるのは罪です。イエス様は人を罪から救いだすために来られました。しかし、人は自分の罪が明らかになるのを恐れ、拒むのです。病気がいやされるだけなら、罪は暴かれないので人々は集まります。しかし、ここで人々は、イエス様が罪を追い出すという象徴的な出来事を目にして、恐れたのです。  人の重荷とは見えるものではなく、その人の罪です。神と私たちの関係は、罪を差し出し、ゆるされる関係です。神はすべての罪をゆるして、私たちを苦しめるすべてのものから解放してくださるのですから、恐れる必要はないのです。ですから、惑わされないで、神の前に自分の内にあるすべての思いを差し出し、神にゆるしていただきましょう。信仰は悔い改めから始まるのです。