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2009年9月27日 礼拝メッセージ
『信じた通りになれ』
(新約聖書 マタイの福音書 8章1〜13節)

『イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」』(新約聖書 マタイの福音書 8:1〜4)


イエス様は、いやされたらい病人に「誰にも話さないように」と注意しました。それは、イエス様が来られた目的が、人々を罪の悔い改めへと導くためだったからです。人が苦しむのは、病や見える状況によってではなく、自分自身の罪のためにです。人の救いは、病がいやされることや望みがかなうことではなく、罪を悔い改めることによってしかありません。そして、罪を悔い改めることこそ、イエス様を信じることなのです。癒しという奇蹟を見て、人々が悔い改めという方向からそれて、神を利用することがないよう、イエス様は配慮したのです。


ただ、祭司にはいやされたことを証しするよう言われました。当時の祭司たちは、理屈をこねてイエス様を迫害していました。その人たちに対しては、理屈では説明できない奇蹟を目の当たりにさせ、考えさせようとしたのです。また、「供え物をささげなさい」とも言われました。これは、神に感謝することを意味します。人は問題が解決すると、すぐに忘れてしまうものです。神への感謝を忘れると、神から心が離れてしまいます。神に日々感謝をささげ、心が神にしっかりとつながるようにしましょう。


『イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(新約聖書 マタイの福音書 8:5〜13)



イエス様は百人隊長の言葉に感動されました。それは、彼が神の権威をよく理解していたからです。権威と力の関係について、警察官と車に例えることができます。警察官よりも車のほうが力がありますが、警察官が手を挙げれば、車を止めることができます。それは、警察官に権威があるからです。この世界で最も権威ある存在、それは神です。その神のことばが目に見える力よりも権威あるものであると理解していた百人隊長は、ただ神の言葉を求めました。神のことばに権威があることを本当に理解している人はなかなかいません。ゆえにイエス様は感動されたのです。


私たちは人の言葉に一喜一憂しているかもしれません。では、神のことばに対してはどうでしょうか。神のことばに喜んだことはあるでしょうか。神のことばゆえに安心しているでしょうか。神のことばだけを求めたことがあるでしょうか。


百人隊長に対して、イエス様は「あなたの信じた通りになるように」と言われました。私たちは、みな自分の信じた通りに進んでいるのです。自分をダメだと信じていれば、ダメな方向に進んでしまいます。しかし、自分は神の素晴らしい作品であると信じているのなら、良い方向に進みます。何かを変えたいと思うなら、まず間違ったことを信じるのをやめ、正しいことを信じる必要があります。この世で成功を収めたといわれる人々も、成功の約束や保証があったのではなく、まず自分で信じるところからスタートしています。


  『「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:13)


『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:8〜11)


信じるとは、語ることです。信仰は告白によって確認することができます。神の言葉を通して自分自身や物事を見て、信じたことを告白していきましょう。