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2009年9月13日 礼拝メッセージ
『狭い門から入りなさい』
(新約聖書 マタイの福音書 7章13〜27節)

『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。・・・こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:13〜20)


日本語で、『狭い』とは、「有名」あるいは「一流」のと言った意味があります。ですから「狭い門から入りなさい」ときくと、まことの命をいただく為に、努力して、頑張って、行いに励んで、難関を突破する必要があるように感じられます。現にこの聖書箇所を人はそのように解釈し、行いによってのみ救われると強調する異端が跡を絶えません。


この聖書箇所の『狭い』という意味は、「人目につかない」という意味で使われています。イエス様は、まことの救いは人目につかないところに入り口があると語られました。では、人目につかないところとは何を指すのでしょう。その事を説明するために、イエス様はにせ預言者の話を持ち出されました。


にせ預言書の心は貪欲であり、彼らは羊のなりをして獲物を狙っています。表向きは羊のような良い行いをし、良い様相をしているが、心の中は自らの欲(ほめられたい、認められたい、偉くなりたい等)に満ちているということです。イエス様は、このにせ預言者に気をつけなさいと言われました。にせ預言者かどうか見極めるには、良い実をならすかどうかで分かると言われ、良い実をならすなら、良い木につながっている証拠だと言われました。


ここでいう良い木とはもちろん神をさします。神につながると、神からの実がなるので、判別できるというものです。この神からの実のことを、御霊の実といい、聖書に九つ書かれています。


『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22)


ここに書かれている実は全て、心の中になるものです。もし、神につながっているなら、この様な実が心の中になっていくのです。その実によって、神につながっているかどうか判断できます。イエス様が言われた、人目につかないところとは、心の中を指します。心の中は人目にはつきません。しかし、心の中にこうした実がなると、自然と行いにも変化が生じてきます。


一方、にせ預言者は、神につながっているかのように装って、自分の欲につながっているので、御霊の実がなりません。彼らの関心は、いつも人目につくところにあります。自分がほめられる為に、人の歓心を買うために、努力して、見える偽物の実をならします。


このにせ預言者を、自分自身に捕らえられるなら幸いです。自分は神につながっていると思っても、人の心には、いつも人からほめられたいという自らの欲を達成させようとする自分がいます。そしてその自分は語ります。行いがなければ、立派なクリスチャンだと思われないし、神も救ってはくれない。だから頑張れとささやきます。 


イエス様は、この自分自身の中に住むにせ預言者に気をつけろと言われたのです。自分の心を見るなら、神に仕え、神につながり、御霊の実がなっているのか、それとも自分の貪欲に仕えているのか、容易に見分けがつくでしょう。私達は人を見分けて、人をさばく前に、自分自身を見分ける必要があり、自分の中に住む、にせ預言者にだまされないようにする必要があります。このにせ預言者は、神が食べてはならないと言った善悪を知る木の実を食べて以来、すべての人の心に住み着いた、誰の心にもあるものなのです。にせ預言者は、行いでしか救われないとささやき、私達をだまします。


しかし、神が、狭き門から命に至るのだと言われた意味は、人はどれだけよい行いをしたかによって救われるのではなく、人目には全く目立たない、神を信じるという心の中にある救いの門を通して救われるという意味です。すなわち、神を信じるという、外面的には分からない、自分自身にしか分からない、信仰という門を通じて、人は救われるのだと言われたのです。


『わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』』(新約聖書 マタイの福音書 7:21〜23)


イエス様は、人は行いによって救われるのではないということを念押しするために、続けて語られました。いくら主よ主よと言おうとも、いくら主のためにといって悪霊を追い出したり、奇跡をしたり派手な行いをしても、私につながっていなければ(御心を行う)、人は救われないと説明されました。神を利用し、自らの願望を達成したい人たちも、主よと言います。そして、頑張ります。しかし大切なことは神につながり、心に御霊の実をならせていくことに他なりません。


その事をさらに深く理解させるために、良い実という御霊の実がなる人を、岩の上に家を建てた人に例え、見せかけは立派でも、御霊の実のない人は、砂地に家を建てた人に例えて、話を続けました。


『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」』(新約聖書 マタイの福音書 7:24〜27)


私達は見える所の建物を比べ、それに惑わされますが、大切なのは土台です。土台のない家は、天災に弱く、すぐに壊れてしまいますが、土台のしっかりした家は、絶対に壊れないと説明されました。この土台こそ、神様との関係の深さを示し、御霊の実、良い実を示しています。そして、こうした真の良い実をならせるためには(神との深い関係を築くためには)、神の御心をとにかく実行せよと主は言われました。


神の御心の中でも、最も基本になるのが、狭き門から入りなさいの直前にイエス様が語られた、自分にして欲しいことを人にもせよという教えです。これを黄金律と言います。これが御心であることを知るなら、それをとにかく実行すれば、御霊の実がなるということです。では、どうして実がなるのでしょうか。


それは、この御言葉をまじめに実行しようとすると、人は自分の罪深さに気づくからです。さらには、自分の限界、弱さにも気づきます。自分にして欲しいことをどこまで人にすることができるでしょうか。――できないのです。その事に気づくと、人は神に悔い改めます。神に助けを乞います。これこそが、神と私達の関係を築く土台となるのです。そもそも律法の目的は、人を罪の下に閉じ込め、神の恵みに導くためのものと聖書にありますが、御言葉を実行すると、罪に気づき、弱さに気づき、人は神の恵みにあずかれるのです。神と人との関係は、良い行いをしてほめてもらうことで築くものではありません。主は言われました。


『『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 2:17)


人は外側の行いだけ見て、自分は立派な行いが出来るから神に救っていただけると思うなら、その人は神との間に何の関係も築けません。神は罪人を招くために来られました。罪に気づき、自らの病に気づき、人は初めて医者を必要とし、医者と患者の信頼関係が築けるのです。この罪に気づくことこそがカギなのです。それは、御心を聞き、それを実行しようとする時に、自らの病に、罪に気づけるのです。

――― 何の為に、御心を行うのか?―――

それは、自分の罪に気づいて、神に悔い改める為です。そして、それが神との関係が築ける祝福です。神は、罪を赦し、弱さを覆い、あわれんで下さる方です。にせ預言者のように、自分が立派だということを証明する為、救いを得る為に、御心を実行するのではありません。御心を実行することの真の意味を履き違えてはなりません。


神はこの様に人が救われるのは信仰によること、大切なことは心の中であること、自分の中にささやくにせ預言者に惑わされることなく御心を実行し、自分の罪や弱さに築き、さらに神との深い関係の土台を築いていきなさいと言われたのです。