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2009年8月16日 礼拝メッセージ
律法の成就
(新約聖書 マタイの福音書 5章17〜48節)

『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:17)


律法とは神の命令で、預言者とは預言の書です。つまり「律法と預言者」で旧約聖書を指しています。人々はイエス様が何か新しい教えをするのではないかと思ったようですが、イエス様はご自分が旧約聖書の律法や預言を成就するために来たのだと言われました。


当時のユダヤでは、律法学者が神の律法を解釈し、細かな規定が定められており、それを守ることで救われるとされていました。たとえば、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・」という律法に対し、仕事の規定から、歩数制限まで、こと細かに決まり事を設けられました。


ユダヤ人にとって、いつしか律法そのものより、解釈による規定を守ることが重要になり、特に律法学者たちは、律法の規定を完全に守っていることで、自分は正しい者だと自負していました。 しかし、律法学者たちが定めた規定を守ることでは義とされず、神の国に入ることはできないと主は言われます。義とは神の律法を完全に行うことができることであり、神お一人が義なる方なのです。人々は、自分が義となるために律法を行うと思っていましたが、律法の本来の目的はそうではないことを、イエス様はここで教えておられます。


『しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22〜24)


この御言葉にあるように、律法は、私たちをキリストへ導く養育係です。具体的には、私たちが神にゆるされなければならない罪人であることを知らしめることが、律法の役割なのです。罪人と自覚した私たちが、神に助けを求め、ゆるされ、義とされ、救われるためです。ですから、律法は、律法学者が考えたように義とするためのものではなく、罪に定めるためのものなのです。


続けてイエス様は、律法学者の解釈とは違う、律法の本当の意味を教えています。


『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。・・・

『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。・・・』(新約聖書 マタイの福音書 5:24〜48)



神の基準で律法を解釈するなら、誰も逃れることはできません。完全に守っていると自負していた律法学者たちも、イエス様の言葉によって自分たちは認められなくなるという危機感から、イエス様を殺そうとしたのです。次の個所にもパウロによって同じことが書かれています。


『では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」・・・

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:9〜24)



罪を自覚することは、落ち込む材料ではなく、神にゆるされる機会となり、神との関係が深まるのです。私たちが神の愛を深く知るのは、奇蹟によってではなく、罪をゆるされるという体験によります。神が私たちをどれほどの愛によってゆるしてくださったかを知るなら、つぶやくことはできません。神に信頼し、すべてのことを委ねて生きていきましょう。