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2009年8月9日 礼拝メッセージ
心の貧しい者は幸いである
(新約聖書 マタイの福音書 5章3〜16節)

『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3〜4)


今回は、山上の垂訓として有名なイエス様の説教をはじめから見ていきます。冒頭から、心の貧しい者、悲しむ者は幸いであると、人々とは逆の発想をイエス様は提示されました。私たちはみな、物事を判断する基準〈物差し〉を持っており、いつでも自分の物差しで判断し、導き出した答えが正しいと思っています。しかし、イエス様は、別の物差しがあること、物差しを変えれば別の答えが出ること、物差しが間違っていれば幸いがあってもそれが見えないことを、この短い言葉の中で語っておられます。


『柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:5〜9)



続いて、幸いを得る生き方についての次の5つのことが語られます。


1.柔和な生き方

柔和とは、具体的には、怒らず優しく語ることです。私たちを支配するのは言葉であり、怒って語れば幸いは遠ざかり、柔和な言葉を語ることは幸いをもたらします。


2.義を求める生き方

神は何が真実かを求める者に義を与える方です。求めなければ与えられません。それが神の法則です。真理は私たちに幸いをもたらします。


3.憐れみ深い生き方

人にしたことは自分に返ってくるというのも法則です。人に幸いを与えるので、自分も幸いを受けます。


4.心のきよい生き方

聖書が言うきよさとは、神を第一にすることです。神を優先する人を神は導くことができます。神に従う気のない人は、神の導きを選ばないので、導かれません。


5.平和をつくる生き方

言い換えれば、争わないということです。争いによってではなく、平和を優先させることで問題を解決することが、神の子としての証となります。


幸いとは、心に怒りがない状態です。怒りが私たちの幸いを消す原因です。そして怒りは人を憎む心から生まれます。多くの場合、親に対するものです。怒りっぽい人は、意識していなくても、誰かに対する憎しみ(心の傷)が残っているので、怒りが出やすいのです。心の傷とは、誰かからひどいことをされたり、予期せぬことが起こることが要因のように思われていますが、そうではなく、そのことで人を憎んだことでできるのです。ですから、傷がいやされるためには、憎んだこと(愛せなかったこと)を悔い改めることが必要です。悔い改めたなら、さらに、愛そうとしても愛せない自分に神の憐れみを求めることが解決の道です。


『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。10〜16節』(新約聖書 マタイの福音書 5:10〜16)



クリスチャンとしての生き方を貫くなら、報いは大きいことが語られています。また地の塩として生きるとは真実なる神の言葉を語り、神の言葉を自分の物差しとして生きることです。

私たちは今、幸いを得ているでしょうか。もし、幸いがないのなら、神の物差しとは違う間違った物差しを使っているためかもしれません。怒りを抱えているからかもしれません。幸いを失ったら、いつでも神がここに示してくださっている解決の道を歩んでいきましょう。