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2009年7月19日 礼拝メッセージ
バプテスマのヨハネ
(新約聖書 マタイの福音書 3章)

『そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。』(新約聖書 マタイの福音書 3:1〜6)


バプテスマのヨハネのことは、イザヤ書40章3節に預言されています。彼は、イエス・キリストが来られる備えとして、人々に罪の悔い改めをさせ、バプテスマを授けていました。私たちが神を受け入れるために必要なのは、罪を告白することです。人と神の接点はそこにしかないからです。悔い改めによって、私たちは神と関わりを持つことができます。


『しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。・・・斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」』(新約聖書 マタイの福音書 3:7〜12)



パリサイ人たちは、悔い改めてではなく、自分たちが敬虔に見えるためにバプテスマを受けに来ました。ヨハネはそのことを見抜いて、厳しく叱ります。ヨハネは彼らに悔い改めにふさわしい実を結びなさいと言いました。ヨハネの福音書で、イエス様はご自分のことをぶどうの木で、私たちは枝だと言われました。つまり、イエス・キリストにつながらなければ実を結ぶことができないということです。アブラハムの子孫であっても、イエス・キリストを救い主として信じるのでなければ、いのちを失うのです。


ヨハネはさらにイエス・キリストについて、説明しています。脱穀場とは私たちがいるこの世界を指しています。麦ともみ殻をふるい分けるように、私たちの殻を取り除かれるために、イエス様は来られました。なぜなら、私たちが苦しむ原因は、私たちのかたくなな心という殻だからです。試練に遭うと殻がはがされていきます。神に対するかたくなな心を捨てる、すなわち悔い改めることで、私たちはゆるされ、きよめられるのです。


『さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』(新約聖書 マタイの福音書 3:13〜17)



イエス様は神ですが、あえてバプテスマを受けました。それは、人間にとってバプテスマという儀式が大切であることを教えます。イエス・キリストを信じたら救われるのですが、この儀式を通して自らの信仰を公にすることで、自分にとっても忘れ難く心に刻まれるものとなります。 また、この箇所に三位一体(父なる神・子なる神〈イエス・キリスト〉・聖霊)の神が表されています。イエス様のところへ神の御霊が下ってきたとありますが、これは聖霊様です。「これは、私の愛する子。…」と言われたのは父なる神です。


まとめとして、悔い改めについて定義すると、次のようになります。


1.神の働き

悔い改めを導くのは神であり、私たちの力でするのではありません。

『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4)

神はいつも私たちを悔い改めへと導こうとされます。それをかたくなに拒む心が私たちを苦しめます。神の恵みというのは、病気が治るとか、目に見える祝福よりも、悔い改めによって私たちの殻が取り除かれ、神と深い関わりを持つようになることです。


2.心を耕す

信仰の実がなるためには、心が耕される必要があります。畑の作物は、良く耕した土地でないと実を結ぶことができません。悔い改めは、心を耕す作業です。悔い改めることにより、心の土壌が改良され、神の御言葉が心の中に大きくなります。
礼拝や賛美も同様で、その目的は神とその御言葉が心の中に大きくなることです。


3.罰を受けるためでなく、赦されるため

世の中の基準では、罪を悔い改めることで、自分の価値が下がるように思うでしょう。しかし、むしろ罪を隠し通してしまうことで、私たちは罰を受けてしまいます。神の前には何も隠す必要はありません。私たちは、赦され、神の愛に触れるために悔い改めるのです。隠さずに正直に告白することで、私たちは神にゆるされ、神の愛を体験します。神の愛に触れた人は、人に優しくなります。神の愛が私たちを真に変えるからです。