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2009年7月5日 礼拝メッセージ
キリストの系図
(新約聖書 マタイの福音書 1章)

1節から17節には、イエス・キリストに至る系図が記されています。その中に、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」とあります。これは、ダビデが部下の妻を姦淫し、その部下を殺したという罪の記録であります。ダビデと言えば、イスラエル人にとって誇りである人物ですが、この罪はイスラエル人にとって汚点であり、隠蔽したい事実であるにも拘わらず、聖書には包み隠さず記されています。系図の中にはこの他にも、そのように妻以外の者から生まれた子がいます。このことから分かるのは、神にとって重要なのは、誰の子かということではなく、すべての命が大切であり、平等に扱われるということです。ダビデの子、ソロモンも神に与えられた知恵によって偉大な王として用いられました。


『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。』(新約聖書 マタイの福音書 1:18)


イエス・キリストは聖霊によって生まれたとあります。常識では考えられないことですが、神に不可能なことはありません。イエス様は人として生まれましたが、神であることを示しています。


『彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』(新約聖書 マタイの福音書 1:20〜23)



新約聖書はギリシャ語で書かれています。「イエス」というギリシャ名は、へブル語では「ヨシュア(神は救い主の意)」と言います。旧約聖書にあるとおり、エジプトを脱出したイスラエルの民を約束の地へ導いたのはヨシュアでした。これはイエス・キリストの雛型です。


イエス・キリストについての預言は事細かに旧約聖書に記されています。その他の預言についてもそうですが、神は必ず約束を守られることがわかります。上の預言は神がイザヤに語られたものですが、イザヤは預言の成就を見ていません。私たちは自分の眼の黒いうちに約束が見えると思いますが、神の時はもっと後のことがあります。私たちに対する神の約束は聖書にたくさんしるされていますが、神にしてみたら私たちは求めていないようです。神は求めなさいと言われます。こんなこと祈っても仕方がないと自らあきらめないで祈り求めましょう。神は求めるものに与えられる方です。


この箇所から、イエス様がどんな方かを知ることができます。


1.罪をゆるす方

ヨシュアが民を約束の地へ導いたように、ご自分の民を罪から救うために、この世に来られました。


2.共に生きる方

「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」と呼ばれると言われたように、イエス様は私たちと共に生きてくださる方です。私たちの弱さも醜さもすべてご存じの上で、助けてくださる方です。私たちは人との関係づくりを神にも適用しようとすると失敗します。人に受け入れられるか不安で、良い行いをして評価されようとします。しかし、神は行いによって評価する方ではなく、私たちの存在そのものを愛しておられます。正直に罪を告白すれば、ゆるされます。弱さも隠さなければ助けられます。


3. 目標を与える方

人生の悲劇は、目標を達成できないことではなく、目標がないことであるとある人は言いました。神はすべての人に計画を持っておられます。神に心を向けて生きる時、その計画を見出すことができます。