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2008年4月27日 礼拝メッセージ
神の命令
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3章17〜24節)

『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:17〜19)


行い(犠牲を伴う行為)をもって愛することで、私たちは神の方向に向かっている(真理に属する)ことがわかると書いてあります。ここにはどこまで犠牲を払ったらよいのか、その基準は何も書かれていません。行いについて、勘違いしないための注意を3つ挙げます。


1.行いは人をさばく基準にはならない

ある人が犠牲を払わないと周りが判断してさばくことはできません。その人が犠牲を払っているかどうか、見えるところで判断することはできないし、さばくこと自体してはいけないことだからです。自分に関して、行いをして平安があればそれでよいのです。平安があるかどうかはその人自身がわかります。


2.できることをする

行いの基準が聖書に書かれていないのは、人それぞれできることが違うからです。あるときイエス様は、高価な香油の壺を割って、イエス様に香油を塗った女性を絶賛しました。弟子たちはなんともったいないことをしたのかと憤慨しますが、イエス様は彼女をほめた理由を語られました。それは、彼女が自分にできることをしたからです。しかも、自分の役割を理解して、それを無理なく行ったからでした。同じ箇所も聖書の訳によっては、「できる限りのことをした」と訳されていますが、そこには無理をするというニュアンスがあります。


弟子たちもそうでしたが、人は精一杯無理をしてでもできる限りのことをすることで神に喜ばれると理解しています。しかし、神は一人一人に異なる役割とそれに見合う賜物を与えているので、役割を理解し、それを行う時、無理をしなくても自然にできるものです。神は私たちが自分のなすべきことを理解し、自然体でそれを行うことを喜ばれるのです。


3.報酬を求めない

無理をせず、できることをするとき、そこには喜びと感謝があります。無理があると、これだけやってあげたのだから相手にはこうしてほしいと報酬を求める思いが入ってきます。しかし、報酬を求めたら、聖書が言う「行い」ではありません。


『たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:20)


神様は私たちが御言葉に従えたかどうかでいちいち責めたりはされません。先週までの箇所にもあったように、神が問題にするのは、私たちが神の方向を向いて歩んでいるか、その一点です。御言葉にチャレンジして失敗すると、自分の心に責められるかもしれませんが、御言葉に従おうとして歩んでいるなら、たとえ失敗しても、神はそれを責めるようなことはされません。


『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:21〜23)


神の命令どおり、互いに愛し合うなら、求めるものを何でもいただくことができるとあります。神は私たちが、とにかく互いに愛し合うという御言葉にチャレンジするように、促しておられます。そして、実際にはじめると、私たちは愛することがいかに難しいことかわかります。まず、自分の置いた条件という石につまずくのです。そして、何とか相手を自分の条件に合わせようとしてあがき、苦しみ、ゆきづまるので、自分の条件を取り除き、神の見方を取り入れていくという過程に入ります。


神の見方で見ることができるようになると、つまずきはなくなり、神の御心が見えてきます。そして、以前のように自分のためではなく、キリストのために生きたいという方向に完全に変わります。その時、私たちの願いは神の御心と一致するので、必ずその願いは叶えられるのです。上の御言葉にあるとおりです。


誤解してはなりません。私たちが戦うべき敵は、私たちが普段使っているものの見方(報酬のめがね)です。私たちはそれをはずし、神のものの見方(恵みのめがね)をかけなければなりません。サタンはそれをさせまいとしますが、私たちはめがねを掛け替えるために、人を愛することをチャレンジしましょう。それに向かって歩んでゆくことで、私たちは変えられていきます。


『神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:24)


私たちが神の方向に正しく向かっているかどうか、どうやって知ることができるでしょうか。それは、神の前に悔い改めができるかどうかでわかります。悔い改めは御霊の助けによらなければできないからです。自分の力でも反省や後悔はできます。しかし、悔い改めは反省や後悔とは違います。


『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4)


条件を置くのは罪(神のことばに反すること)です。それに気づいて取り除くことが悔い改めです。それは神の助けによるものであり、神の与える恵みです。愛することに失敗しても、悔い改めながら、神の恵みに助けられてチャレンジし、神に造りかえていただきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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