『私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:1,2)
神は神を信じる私たちを神の子としてごらんになり、愛しておられます。実際の私たちは日々、罪を犯す者です。しかし、後にキリストと似た者になる=完全な者になることが分かっています。ですから、私たちは今は不完全であっても、神の子とされているのです。これが、私たちの持つべき正しいセルフイメージです。この正しいセルフイメージに立って聖書を読むのでなければ、聖書を正しく理解することができません。
自分は神の子であるという認識は、I am OK.という認識です。しかし、神から与えられた正しい認識を持たない人は、I
am not OK.という認識に立っています。この認識に立って聖書を読むと、自分の価値を高めるために御言葉を行おうとするので、御言葉が重荷となります。イエス様は私の荷は軽いと言われました。(マタイ11章30節)ですから御言葉は重荷とはなり得ません。御言葉が重荷となるのは、御言葉を読む土台が間違っているためです。
I am OK.であるという認識は、自分がすでに神から価値あるものとして作られたという認識です。ですから、自分の価値を高めるために何かをする必要はありません。この土台に立っているなら、聖書を読むほどに自分の罪深さが分かり、それと同時に罪深い自分をゆるしてくださった神の恵みを深く知るようになります。
『キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:3〜6)
神を信じる者は、神に従って歩もうとします。確かに罪を犯します。しかし、心の方向が神に従おうとしているのなら、たとえ失敗して罪を犯しても、罪のうちを歩んでいるのではありません。罪のうちを歩むとは、神と御言葉に逆らう生き方を言います。従おうとしているか、していないか、その心の向きをここでは問題にしています。聖書の言葉で理解できないこと、実行できないことがあるのは当然で、あってよいのです。教えられ、助けられてはじめて私たちは理解できるし、実行できるのです。
自分が罪の中を歩んでいるのかどうか、すなわち、神に従おうとして歩んでいるのか、わかりやすい判断基準があります。それは次の節にあります。
『そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:10)
兄弟(人)を愛しているかどうかが、神に従っているかどうかの基準となります。人を愛していないサインは次のような心の状態に表れます。
1.さばく、訴える
人をダメだとその価値を否定していないでしょうか。さばいたことに気づいたら、すぐに悔い改めて方向転換する必要があります。
2.憎しみ
15節を見ると、神は、憎しみ=殺人と見られることが分かります。私たちは誰でも心に憎しみの種を持ってしまいます。その種が成長すると、人を殺すに至るのです。成長する前に芽を摘む必要があります。自分の心をチェックしましょう。
3.怒り、腹を立てる
これも1,2同様、そのまま放置すれば大変なことにつながります。自分の心に怒りや腹立たしさがあることに気づいたら、すぐに対処しましょう。
自分を正直に見つめたなら、上記のどれかが自分の心にあることに気づくでしょう。自分が人を愛していないことに気づく人は幸いです。それを素直に認め、神にゆるしていただき、助けを求めましょう。神に従おうとして歩む人を、神は助けてくださいます。 |