『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:15〜17)
世にあるものを愛することは、言い換えると条件をつけることです。モノがほしいと思う背景には、手に入れなければ、自分の価値が上がらないという、自分の価値への条件があります。モノを手に入れることに限らず、人が自分の思うとおりの行動をしてくれることで、自分の価値を確認しようとするなど、自分の価値のための条件をつけることで、人はつらくなります。つらい、不愉快な思いが来るのは、自分が作った条件のせいです。条件はたいてい満たされず、満たされてもまた次の条件を作るので、いつまでも満足行かないからです。
イエス様が私たちに語られる教えはいつもシンプルです。「さばいてはいけない」「隣人を愛しなさい」私たちが人をさばくのは、条件をつけて人を見るからです。この人はこうしなければならない。条件をつけなければさばきようがありません。つまり、イエス様が人を愛しなさいと言うとき、それはすなわち条件をつけるのをやめなさいと語っておられるのです。イエス様は私たちに決して条件をつけませんでした。この手紙の中でも、このことが何度も語られていますが、それは私たちがなかなか神が言われる愛を理解しないことにもよります。
『小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:18,19)
ヨハネが「小さい者たち」と言うとき、それは救われたばかりの人を指します。いつの時代も、教会から去っていく人、信仰を捨ててしまう人がいます。それは、その人たちが神に属していなかったからです。逆に言えば、神に属している人は決して神から離れることはできません。神に属している人と属さない人の違いは、その人が神を信じる理由によって分かります。神を信じるという人には、2つのタイプがあります。一つは、自分の願いを叶えるために信じる人、もう一つは、自分の罪をゆるしてほしくて信じる人です。聖書が信仰と認めるのは後者であり、その人は神に属しているのです。
イエス様は私たちの罪をゆるすためにこの世に来られました。ですから、自分を罪なしとするなら、その人はイエス様と関係がなく、神に属していません。イエス様についていた弟子は十二弟子の他にも大勢いましたが、ユダをはじめ、多くの弟子たちがつまずいて去っていきました。それは、彼らが罪をゆるされることではなく、自分たちの願い−イエス様によって革命を起こすこと−を求めてイエス様についていたからです。しかし、イエス様は彼らの願いとは違うことを教え、行動されたので、彼らは自分の願いが叶えられなければもはや用はないと、離れていったのです。ですから残念ですが、いつの時代もこのような人がいることは不思議ではありません。
『あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。・・・
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:20〜27)
油とは聖霊を指します。私たちがまことの神を信じることができたのは、聖霊様が教えて下さったからに他なりません。教えを頭で納得したからといって、その人が信じるかというと、それは別の問題です。私たちが信じるには、神からの注ぎの油が必要なのです。私たちがどんなに伝道しても、神を信じるに至らない人もいれば伝道されなくても信じる人もいます。救いは神の業なのです。
『・・・イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』(新約聖書 マタイの福音書 16:13〜17)
私たちが信じることができたのは、説得されたからではなく、努力したからでもなく、神が教えて下さったからです。別の箇所にも、神はご自分のことを人の努力で知ることがないようにされたと書かれています。神はすべての人を救いに導こうとして働きかけておられます。しかしどうしても信じるに至らない人もいます。それはその人自身の傾向があるからです。神が導きやすい人には、次のような特徴があります。
1.罪を認められる
自分の弱さ、みにくさを照らされたとき、それを正直に認めるなら、神はその人をゆるし、さらに導くことができます。パリサイ人たちに対しても、イエス様は何度も導こうとされましたが、彼らは自分の罪を認めることができませんでした。
2.真理を求める
人が自ら神に近づこうとするなら、神はその人に近づいて下さいます。人が何を求めているかが重要です。神ご自身を求める人に神は近づき、教え、導くことができるのです。
3.へりくだる
イエス様は何度も「聞く人になりなさい」と言われました。自分の知っていることはごく一部であり、神に教えられるのでなければ、私たちには真理が分からないのです。そのことを深く認識している人に、神は教えて下さいます。
私たちと神との関係は、罪を悔い改め、ゆるされるところにあります。自分のつけた条件に不愉快になったなら、それを悔い改め、へりくだって神の愛を教えられる者として、歩んでいきましょう。 |