『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:1〜4)
イエス・キリストの弟子ヨハネは、自ら経験したこととして、読者に向けて「いのちのことば」について伝えようとしています。「いのちのことば」とはイエス・キリストのことです。ここで書かれている交わりとは、人と人とが互いに願望を満たすためだけのつながりではなく、互いの心が神様に向くような交わりです。同じ励ましでも、人間的な励ましよりも、御言葉による励ましを互いにしたいものです。また、ノンクリスチャンの人との交わりを通して、その人の心が神に向けられ、救われるのを見る時ほど、大きな喜びはありません。私たちは、この喜びをいつも求めていきたいものです。
『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:5〜7)
光である神と交わりがあるなら、私たちは光の中を歩んでおり、闇を歩くことはないと書かれています。同じヨハネの手紙第一 3章9節にも、神と交わっていながら、罪を犯し続けるのはおかしいということが書かれています。しかし、次の御言葉はどうでしょうか。
『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8〜10)
5〜7節の御言葉では、神と交わりがある者は罪を犯さないと書かれ、8〜10節では、私たちは罪人であると書かれており、互いに矛盾するような印象を受けます。ここで私たちが注意しなければならないのは、部分だけを取り出して論じると間違った教えを生じてしまうということです。8節で、人は罪を犯すと書かれている以上、クリスチャンになったら罪を犯さなくなり、罪を犯すのは救われていないからだという主張は間違いです。つまり、光の中を生きる=罪をおかさない、ということではないのです。では、光の中を生きるとはどういうことなのでしょうか。
1.方向
聖書の中に「全き人」つまり、完全な人と呼ばれている人物が登場します。1人は箱船を造ったノアで、もう1人はこの上ないほどの試練にあったヨブです。彼らは確かに、神の言葉に従って誠実に生きた人たちでした。しかし、それぞれの罪の姿も明確に書かれています。つまり、聖書の言う全き人は罪を犯さない人という意味ではなく、行いを指しているのではないということです。
聖書で言う全き人とは、行いではなく方向を指します。その方向とは、神に向かって誠実に生きていこうとしているかどうかです。行いが実際にできるかどうかは別です。そこで、もう一度5〜7節を見てみましょう。ここに書かれているのは、神が私たちに与えた地位です。神の子として、キリストのいのちの一部である、という栄光ある地位です。
しかし、地位が与えられていても、実態はそこまで行き着いていません。それが8〜10節に書いてあるのです。クリスチャンになり、神との交わりが始まると、神の光に照らされて、よりよく自分の醜さを自覚するようになります。そのとき、9節にあるように罪を悔い改めるなら、神はその罪をゆるし、きよめてくださいます。そのような歩みが光の中を生きることなのです。そして全き人とは、悔い改め続ける人とも言えます。それが神の方向に歩むことです。反対に、闇の中を歩むとは、悔い改めなき人生を指します。
2.御言葉が基準
何をするにしても、御言葉は何と言っているか求め、それに従って生きることです。
3.地位を確認する
神は私たちを神の作品として作られました。作品としてこの世に出るのは、作者がよしとしたものだけです。つまり、神の目から見て、全ての人がOKなのです。ですから、私たちはI
am OK.というスタンスで生きるべきなのです。しかし、私たちは自分の罪の実態を見て、I
am not OK.としてしまいがちです。光の中を歩むとは、自分の実態を見てI am
not OK.とせず、神が与えてくださったI am OK.の地位をいつも確認して生きることです。
自分をI am not OK.という間違った認識で見ると、恐れが生じます。人が自分をどのように見るかという恐れです。そして、よく思われるための条件を自分に、あるいは相手に課します。しかし、それを自分も相手も満たすことができないため、怒りが生じます。つまり、多くの人が抱える人間関係のひずみは、I
am not OK.という誤った認識による恐れから生じていると言えます。また、人からの評価だけでなく、死に対する恐れもあります。ある哲学者は、人は死の恐れを消すために様々な娯楽を作ったと述べました。仕事に邁進する人もあるでしょう。
これらの恐れを本当に取り除くものは、神から与えられたI am OK.という認識です。それは人からは肉親であっても、私たちのたましいに対して与えることはできません。神だけが私たちのたましいにI
am OK.を与えることができます。
私たちの地位と実際を正しく認識し、神の方向へと歩み、日々悔い改めるとともに、I
am OK.という認識を深めていきましょう。 |