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2008年3月23日 礼拝メッセージ
主の復活
(新約聖書 ヨハネの福音書 20章)

『さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。・・・墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:1〜10)



弟子たちはイエス様ご自身から復活のことを聞いていたのに、いざ復活が起こった時、それを理解できませんでした。私たちの人生にも理解できないことが起こります。そういう時、私たちには2つの選択肢があります。一つは、なぜこんなことが起こるのかとつぶやくことで、もう一つはつぶやかずに待つことです。人生に起こる出来事は、その時点では理解できなくても、必ず理解できるときが来ます。ですから、つぶやいてはなりません。


『しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:11〜18)



イエス様はなぜ、ペテロではなくマグダラのマリヤに最初に現れたのでしょうか。マリヤは以前、娼婦でした。しかし、自分の罪を悔い改め、神の赦しを知り、弟子となりました。イエス様はかつてこのように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」病が重いほど医者を必要とするように、人は罪責感を覚えるほどに、主を必要とします。マリヤは最も罪責感を覚え、最も主を必要とした人物だったのです。


たしかに神の前に罪の大小はありません。ですから、どんな人でも自分の罪を自覚するなら、主に助けを求めずにはいられないはずなのです。しかし、世の中には罪の痛みを感じさせないようにするものがたくさんあり、人はなかなか自分の罪深さを認めることができないでいるのが現状です。


また、イエス様は困っている人を助けに来たのでもありません。病人をいやされた時も、そのこと人が集まってこないように口止めされました。困っている人は人間同士で助け合うことができます。しかし、罪責感からは誰も救い出してはくれません。イエス様は他でもない罪から人を救い出すために来られたのです。復活後、まず最初にマリヤに現れたのは、そのことも示しています。


『その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。・・・

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:19〜29)



マリヤの話を信じることもできず、復活を理解できないでいる弟子たちの前に、イエス様は直接姿を現されました。彼らはようやく主の復活を理解し喜びます。そこにただ一人、居合わせなかった弟子トマスは、彼らの話を聞いても復活を信じることができませんでした。


私たちは何かを信じて生きています。何かを信じなければ、社会生活が成り立ちません。電車が時刻通り来ること、商品を注文すれば届くこと・・・。しかし、人はポジティブな情報よりもネガティブな情報を信じやすいもので、トマスも、他の弟子の言葉よりも、イエス様をこの目で見ていないから復活していないという自分の考えを信じました。


ところで、人はどこから来てどこへ行くのでしょうか。これは、誰にも答えられないことです。このことに関して、私たちは何を信じたらよいのでしょうか。今日の科学では、生き物が単体動物に至るまで、以下に精巧に造られているか証明されています。機械のように精巧に造られたものが、自然にできたと信じることの方が難しいことと言えます。つまり、人間を含めてすべての生き物は、造られた存在であることは間違いありません。人がどこから来てどこへ行くかも、私たちを造った神が言われることを信じるだけです。しかし、立証されたことだからではなく、神のことばゆえに信じることができるなら幸いです。


『この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:30〜31)


神様は私たちがイエス様が救い主であることを信じることを望んでおられます。それはイエス様の御名によっていのちを得るためです。私たちは何かを信じて生きる者です。それならば希望を失うことではなく、希望与えられることを信じるのが良いのではないでしょうか。


『イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:29)



神木イエス・キリスト教会


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