『愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 3:1,2)
ペテロはこの手紙の後半にさしかかり、私たちに思い起こさせたいことを書き記しています。それは、やがて来る終わりの時に向けて、目を覚まして正しく生きることです。
『しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 3:10〜14)
太陽や星には寿命があることは科学の常識です。しかし、終わりの時について事実かどうかを証明する必要はありません。必要なのはただ信じることです。イエス・キリストが再び地上に来られ、私たちは新しいいのちをいただいて、神が用意された場所で永遠に生きる時が来ます。私たちはこの希望をもって生きることができます。私たちは何を信じるかによって生き方が変わります。正しく生きたいと思うなら、私たちはゴールをいつも見つめている必要があります。
終わりの時がいつなのか、私たちには測りようがありませんが、神のなさることは完全であり、私たちの感覚とは異なります。ですから、神のなさることを自分の物差しで捉えないようにしましょう。自分がいつ召されるかも分かりません。しかし、いつであっても、平安をもって召されることが重要です。
『・・・その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 3:16)
聖書の言葉には、私たちに理解できないこともあります。しかし、理解できないからといって、それを自分の常識に当てはめて曲解してはなりません。また、ある御言葉が厳しいと感じることもあるでしょう。実はそのような御言葉こそ、私たちにとって宝となります。御言葉によって私たちが軌道修正をし、主に従うことができれば、すばらしいことです。終わりの日に人々は心地よい言葉ばかりを求めるようになると別の箇所にありますが、私たちを成長させるのは、きついと感じる御言葉であって、それは主の恵みであり、そのまま受け入れるべきものです。
『愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 3:17)
「どうせ罪ゆるされるのだから、悪いことをしよう」とか、「神を信じても何の徳にもならない」といった無節操な考えに惑わされないようにしましょう。これは、イエス・キリストの十字架の犠牲がどれほどのものだったかを全く理解していない言葉です。自分に対する主の犠牲、痛み、愛を今一度、思い起こす必要があります。
『私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 3:18)
私たちの成長にとって必要なのは、神の恵みという土台に御言葉の知識を加えることです。もし、土台が神の恵みでないなら、成長はありません。私たちは御言葉を聞くとき、つい世の中の土台に立ってしまいます。それは、比較という土台です。自分はダメだという立場で、ダメな自分の価値を手に入れようとする立場の土台です。この土台に立って御言葉を実行しても、価値を手に入れるためなのでうまくいかず、結果、やっぱりダメな自分という結論に達してしまうのです。
それに対して神の恵みの土台とは、十字架でイエス・キリストが私をゆるすためにいのちを差し出してくださった、その一方的な恵みを受け取り、自分は神に贖われた価値あるものだという立場に立つことです。この土台に立って御言葉を読むなら、出てくるのは感謝だけです。厳しい御言葉に対しても、神の愛だと感じられるのです。
自分を見るとき、私たちはどうしても厳しい見方をしてしまいがちですが、何ができる、できないと細かく見るのではなく、自分は神の子である、いつも神がともにいる、という具合に大まかに捉える必要があります。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20,21)
私たちは神に贖われて価値あるものとされたのです。その恵みを無にしないようにしましょう。自分の肉なるものはやがて消えて、土台だけが残ります。それは完全なるキリストのいのちです。 |