『そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:1〜4)
長老たちに勧めると書いてありますが、この後に続く言葉は、私たちクリスチャンすべてに向けたものとして受け取るべき内容です。4節までは、成長したクリスチャンに向けられたもの、あるいはすべてのクリスチャンが目指すべきもので、次の5つのポイントがあります。
1.神に従って―自分の作られた目的を明確にする
神は私たち一人ひとりを目的もって作られました。自分が作られた目的は何なのか、理解することがスタートです。それがないまま、やみくもに進んでも焦点がぼけた歩みになってしまいます。
2.強制されてするのではなく、自分から進んで―自発的に行動する
信仰の歩みは、「〜ねばならない」ではなく、「〜したい」という歩みです。しかし、私たちはとかく「〜ねばならない」になってしまいます。それはなぜでしょうか。それは、自分の作られた目的に従っていないからです。神様が自分を作った目的に従えば、無理なく自然にやっていくことができるのです。無理して頑張ってやらなくてはならない状態にあるのなら、私たちの目的がずれていることを示しています。
3.卑しい利得を求める心からではなく―称賛ではなく神の栄光
人が行動によって求めるのは、人からの称賛、評価です。しかしクリスチャンである私たちが求めるものは神の栄光でなければなりません。称賛を求めれてゆけば、方向がずれて、目的を見失うでしょう。人の定める目標と神が定める目標は全く方向が違います。もし私たちが称賛、そして自分の価値を求めて行動しているのなら、軌道修正が必要です。
4.心をこめてしなさい
私たちは相手によって心をこめたりこめなかったりするのではないでしょうか。すべてのことを、イエス様に対してするようにと別の個所にあるように、難しいことですが、私たちもすべての人に対して心をこめて行動するようにしましょう。
5.支配するのではなく、模範となりなさい
私たちは相手を自分の思う通りにすることで、自分の価値を高めようとしがちです。しかし、イエス様は「人の上に立ちたいと思う者は、皆に仕えるものになりなさい」と言われました。自分の思い通りに人を動かそうとするのではなく、むしろ相手に仕え、模範となることを心がけましょう。
『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:5〜9)
「若い人たちよ」と書いてある通り、この箇所ではクリスチャンになって間もない人たちに向けて書かれています。しかし、これらもすべてのクリスチャンにあてはまることであり、5つのポイントが書かれています。
1.従いなさい
目に見える権威に従うことができなければ、目に見えない神に従うことはできません。クリスチャンになって間もない時は、自分自身の思いと神の思いの区別がつきません。それが成長とともに判断できるようになります。自分で判断できない時は、「従う」という選択が私たちを守ります。従うことは、私たちのうちになる悪い思いの芽を抑えます。
2.謙遜を身につけなさい
世の中で言う謙遜は、見かけがへりくだっていることを指していますが、神が言う謙遜とは、御言葉を聞くだけではなく、実際に行うことです。よく聞いているようでも、それを行わないなら、その人は御言葉に従っているのではなく、自分の判断に従っているのであって、謙遜ではなく傲慢です。実行してはじめて神の前に謙遜と認められるのです。
3.思い煩いをゆだねなさい
私たちが思い煩うことは、私たちの手に負えないことです。私たちにできないことであれば、神にお任せするしかありません。本当に神にお任せしたのなら、もはや思い煩う必要はなく、安心していればよいのですが、私たちはつい自分で何とかしようとして思い煩います。それもまた傲慢です。
イエス様は山上の垂訓の中で、誰が思い煩ったからと言って、命を延ばすことができるか、神に委ねなさいという内容のことを言われました。私たちは誰一人自分で命を延ばすことはできません。私たちにできないことも、神にはできることです。思い煩いは、神に任せるのを拒む行為ですから、それをやめて神にお任せしましょう。
4.悪魔がほえたけるししのように…捜し回っています
悪魔は私たちを神から引き離そうとしています。狙いをつけるのは、思い煩っている人です。ここに「吠えたける獅子」とありますが、私たちに直接危害を加えるのではなく、惑わそうとすることを示しています。そのやり方は、問題の本質をすり替えることです。
人は○○を手に入れれば幸せだと思うでしょう。しかし、神を信じていなければその終わりは永遠の死です。それを悪魔は見せないようにします。人は神につながることによって幸せになります。悪魔はそれを分かっているので、そこに至らないように惑わすのです。
多くの人が抱える問題は人間関係の問題です。たいてい世の中では相手が悪いと結論付けます。相手を変えることが問題の中心となり、どんどん問題の本質がすり替わっていき、苦しみの原因が分からなくなります。
5.悪魔に立ち向かいなさい
イエス様は悪魔に対してどのように立ち向かったのでしょうか。
『…試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:3〜7)
問題にぶつかったとき、私たちはすぐに人の意見を聞こうとし足り、自分の思いを優先させたります。イエス様は悪魔に対して御言葉で答えました。私たちも、問題について聖書は何と言っているのかを確認する必要があります。人間関係の問題について、悪魔は「あなたは悪くない、悪いのは相手だ」とささやいてきます。しかし、聖書には「あなたの隣人を愛しなさい」と書いてあります。問題の答えは愛することです。しかし、聖書に解決を求めず、人の意見や自分の思いに答えを求めれば、いつまでも問題は解決しません。
私たちが最も気をつけなければならない、悪魔の最終手段が続く箇所にあります。
『今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』(新約聖書 マタイの福音書 4:8〜11)
悪魔は、私たちの肉の願望を満たしてあげようと囁いてきます。「神に祈ってもかなえられないじゃないか、神への信仰など無駄じゃないか」「願望を満たしてあげる条件として、信仰を捨てなさい」このように悪魔は私たちに囁くのです。残念ながら、その囁きに従って、信仰を捨てた人たちもたくさんいます。私たちは考えなければなりません。何が最も怖いことなのか。
イエス様は十字架につけられるために捕らえられる前に、苦しみもだえて祈られました。なぜここまで苦しまれたのでしょうか。それは十字架につけられる肉体的な苦しみを恐れたのではありません。イエス様が非常に恐れたのは、罪人として死んだあと、3日間、神との関係が断絶することに対してです。これまで一時も神から離れたことがなかったのに、神のいない世界で過ごさなければならない、その恐れをイエス様は弟子たちに隠しませんでした。それは、神との関係が断ち切られることが何よりも恐ろしいことであることを知っておられたからです。その恐ろしさを知っているなら、私たちは決して最も大切なものを悪魔に差し出すようなことはありません。
私たちがちらっとでも、神が祈りを聞いてくれないなら、信仰しても無駄だという思いがかすめるなら、悪魔の惑わしに陥っています。神は祈りを聞いています。私たちが思うような答えが来ないのは、もっと良いものを与えようとしているからにほかなりません。私たちの思いよりも、神の思いがはるかに勝っています。私たちの願望を叶えるために最も大事なものである信仰をみすみす失うようなことがあってはなりません。 |