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2008年1月13日 礼拝メッセージ
御言葉の乳を慕い求める
(新約聖書 ペテロの手紙第一 2章)

『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:1,2)


乳飲み子は母親の乳だけしか求めません。それは、母親の乳だけが自分を成長させるものだと知っているからです。同じように、私たちのたましいを成長させるものは神の御言葉だけです。私たちは日々、さまざまな情報を求め、そういった知識がないと生活できないかのようにも思いますが、それらは生きるために必要不可欠なわけではありません。それよりも私たちにとって必要不可欠なのは神の御言葉です。ですから神は私たちに御言葉を慕い求めさせるのです。


『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:4,5)


霊の家に築き上げられるとは、神の御言葉の上に自分を築くことです。しかし、私たちはよく人の言葉の上に自分を築いてしまいます。人の言葉で落ち込んだり、惑わされるのがその証拠です。しかし、人の言葉の上に自分を築けば、砂の上に家を築くのと同じように、もろく崩れてしまいます。


ただ言葉を聞くだけでは人は変わりません。言葉を聞いてそれによって行動することで変わります。人の言葉を聞いて、それによって落ち込んだり自分を責めたりする行為によって人はネガティブに変わります。逆にイエス・キリストの言葉によって行動するなら私たちは良い方向へと変わります。

この箇所に「神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」とありますが、御言葉による具体的な行動は霊のいけにえ、つまり賛美をささげることです。賛美は神をほめたたえることですから、歌を歌うことだけでなく、祈りや、神をたたえる行動すべてを指します。なぜ賛美するのでしょうか。その理由は次の御言葉にあります。


『なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:6)


イエス・キリストに信頼する私たちは決して失望させられることがないと知っています。見えるところの現実に関わらず、私たちの神はすべてのことを正しくさばかれ、私たちの問題に最上の解決をしてくださる方だと信頼しているから、私たちは具体的に神を賛美する行動をとるのです。


イエス様が最も感動されたエピソードが聖書に2つ記されています。そのひとつはこうです。ある百人隊長がイエス様のところに来て、自分の部下が病気なのでいやしてほしいと言います。そこでイエス様が「行って直してあげよう」言われると、百人隊長は、イエス様にわざわざ来ていただく必要はない、ただおことばをいただきたいと言いました。それはイエス様が語られたことは必ずそうなるという絶対的な信頼からの言葉でした。それを聞いたイエス様は、「このような信仰は見たことがない」と感嘆して言われました。神はご自分の御言葉に信頼する信仰を喜ばれるのです。


『したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:7,8)


御言葉への信頼と逆のことがここに書かれています。御言葉への不信頼、それゆえに従わないことで、私たちはつまずきます。私たちが「誰それにつまずいた」と言う時、私たちは自分が被害者で、相手が悪いと思っています。しかし、私たちがつまずくときは、例外なく、誰のせいでもない、私たち自身が神の言葉に従わないからだとここにはっきり書かれています。つまずきという言葉で表現されなくても、落ち込み、怒り、ねたみ…といったネガティブな感情はすべて、同じ原因です。


『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:9〜11)


私たちは神によって命与えられ、一時この地上に生かされ、神のあわれみによって罪赦され、永遠のいのちをいただき、やがて天へ行く者です。ですから、そのような素晴らしい特権を与えてくださった神を喜ばせるために、御言葉に従って生きていくことを勧められています。

さらに、次の箇所では御言葉に従うことを具体的に説明されています。


『人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。…』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:13〜25)



私たちは御言葉に従わないからつまずくと書いてありました。神は私たちに「神を愛し、あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。すべての御言葉はここに集約されます。ですから、御言葉に従わないとは、人を愛せないことと同じ意味です。この箇所に、善良な主人に対してだけでなく横暴な主人にも従いなさいとありますが、私たちは善良な人にはたやすく従うことができます。しかし、横暴な人には従いたくないと思ってしまいます。それは、人に条件を付けて愛する、愛さないと決めているからです。人に条件を付ければ、実は自分が苦しくなり、つまずきます。


私たちが今属しているいる様々な集団があります。家庭や教会、職場、学校、…それらのどの社会においても、私たちは人間関係のなかで、自分が人を愛せないことに気付かされます。その時は自分の愛のなさを神に正直に祈りましょう。それが人を愛するための一歩となります。人から不当な苦しみを受ける時も、自分は神の前に善をおこなう、つまり、人を愛することをひるまずにしていきましょう。それはまずイエス・キリストがしてくださったことです。イエス様にならう者として、この地上でのひと時を、人を愛して生きていくことができるように、神に祈り求め、従っていきましょう。