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2007年11月25日
的外れ
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章1〜6)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙5章1〜6節)


私たちはキリストによって何から解放されたのでしょうか。罪からです。罪とはギリシャ語で「ハマルティア」=「的外れ」という意味です。つまり、神の御言葉から私たちの「思い」がずれることです。(行為に於ける罪はまず「思い」がずれることから始まります。)そして、的が外れた軌道を修正することが「悔い改め」です。


神の御言葉である聖書に従うことで、私たちは自由に生きることができます。神のことばを無視すれば必ず人は行き詰まります。それは機械をマニュアルの指示を無視して動かすのと同じです。神が造った人のためのマニュアルが聖書であり、聖書に基づいて生きるのでなければ、支障を来してしまうのです。


私たちの自由のために聖書が与えられているにもかかわらず、私たちは自分の思いこみで勝手に生きようとします。しかもそれが的外れな行為であることにも気づいていません。私たちクリスチャン犯しがちなの的外れな行為を見ていきましょう。


●人間関係に関する的外れな祈り

人間関係において問題が起こったとき、相手が変わるようにと祈らないでしょうか。これは相手に条件をつけていることになります。つまり、自分は相手を無条件に愛することができないことを示しているのです。ですから、正しい祈りは、相手を愛せない自分が相手を愛せるようにあわれみを求める祈りです。


また、自分がもっとほめられる(愛される)よう求める祈りもまた的外れです。それは、自分を行ないで見ているからです。神様はすべての人を無条件に愛しておられます。神が愛しておられる自分そして他人、いずれに対しても条件をつけることは神の教えに反すること、的外れなのです。


●「調子がいい、悪い」という判断

ゴルフの達人からすると、素人が「今日は調子がいい」「今日は調子が悪い」と言うのはおかしいことです。なぜなら、素人はもともとヘタなので、基本的に調子が悪いからです。熟練した人だけが、その時々の微妙な違いに敏感になり、調子の善し悪しを判断することができます。それは信仰においても同様です。まずそれが前提になります。


クリスチャンはよく心に恐れや不安があると、調子が悪いと思うのではないでしょうか。しかし、聖書を見ると、ダニエルやイエス・キリストを身ごもったマリア、その他様々な信仰篤い人物に対して、神様は「恐れるな」と語りかけています。それは彼らが恐れ、不安を抱いていたからに他なりません。信仰が成長すると敏感になり、恐れを感じやすくなることがあるのです。つまり、恐れや不安があるから調子が悪いということではないのです。


また、信仰が成長すると罪に対しても敏感になり、自分の思いが的を外せばすぐ平安がなくなります。自分が何をすれば平安をなくすかということも読めてくるのですから、そういうことは避けるよう自制するようになります。


●必要とされていないという思いこみ、涙

「自分などいなくてもいい」というのは、謙遜などではありません。神の御言葉のどこを見ても、あなたは必要ないと書かれていません。全くナンセンスな考えです。また、自分自身や将来の不安のために悩み、涙する人がいます。涙を見ると、人は同情し、何とかしてあげようと思いがちですが、実はその涙は主に信頼していないから流されたのです。聖書にははっきり、何も思い煩う必要がないこと、私たちの将来もすべて神が保証されることが書かれています。ですから、それを思い感謝のゆえに涙するなら良いのですが、御言葉を信じられずに流す涙は、実は神のことばに対する傲慢な態度なのです。


私たちが的外れに陥る最大の理由は、律法主義です。律法主義とは、行ないによって自分や相手を判断することです。それによって憎しみ、ねたみといった思いを生じ、様々な行ないの罪へと発展します。もう一度、最初の御言葉を見ましょう。6節に「愛によって働く信仰だけが大事」とあります。見える行ないではなく、神のことばを信じることが大事なのだということを心に刻みましょう。


ただ、神のことばを信じたいけど、どうしても委ねられない、どうしたら信じて委ねられるのかという問題を持つことがあるでしょう。そこには誤解があります。信じることにも努力が必要だと思いこんでいるのです。それもまた律法主義です。信じること、委ねることには何の努力も要りません。


赤ちゃんは親を信じる努力など全くしていません。信じられるのは何か能力があるからではなく、自分の無力さを知っているからです。自分には何もできないから、親を信じるほかに、選択の余地がないのです。また、私たちは歯に痛みがあれば歯医者へ行きます。この医者は信頼できるかと疑うことなく、とにかく痛みを何とかしてほしい思いで、すべてをお任せするのではないでしょうか。


『そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 5章31,32節)


病人は医者に任せるしかありません。しかし、自分が病人だと思わない人には任せることは難しいでしょう。自分が無力であり、助けの必要な病人であると、知っているでしょうか。神を信頼できるかどうかは、自分自身を知ることにかかっています。



神木イエス・キリスト教会


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