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2007年10月28日
救いは主の御業
(新約聖書 使徒の働き 26章)

『・・・以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。

このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』(新約聖書 使徒の働き 26:9〜18)



パウロはこの場でも自分がどのように救われたかを証ししています。パウロはこの証しを何度もしてきました。彼は以前はクリスチャンを迫害する者でしたが、神が彼を選び、イエス・キリストの証人とされました。聖書に何度も出てくるこのパウロの証しを改めて見るなら、そこから分かるのは、パウロが救われたのは、彼の力ではなく神が彼を捕えたからだということです。


パウロが特別なのではありません。私たちが救われたのも同様です。私たちはそれぞれ、友人に誘われたり、問題にぶつかったりと、いろいろな理由で教会に来たでしょう。そして福音を聞き、それを正しいと信じて救われたのですが、自分で信じたと誤解しています。信じることができたのは、私たちの力ではなく、神が私たちを捕えてくださった結果なのです。この原点を取り違えてはいけません。神が捕えてくださったから今の自分がある、このことを忘れると感謝がなくなります。


私たちの感謝の原点を忘れないようにしましょう。それは、神によって救われたということです。罪人である私たちを救い出してくださったことに対する感謝です。私たちの感謝が、問題の解決や願ったものを受けることに対するものになってしまうなら、本質を見失ってしまいます。日々、私たちはささいなことで不平不満を持ったり、思い煩ってしまいますが、思い煩うことは神の仕事であり、命が終わればなくなることです。


私たちは天国へ行くことが決まっています。それは私たちが何か良いことをしたからではなく、神が私たちを捕えて救ってくださったからです。そして一番大切なものを手に入れたのです。そのことを見失わないようにしましょう。そしていつでもそのことを感謝しましょう。何か良いことができるとかできないといったことは本筋ではないので、悩むことではありません。


『パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」

するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」』(新約聖書 使徒の働き 26:24〜29)



パウロの証しの言葉に対し、フェストは気が狂っていると言いました。しかしパウロはそのような言葉にひるむどころか、一歩踏み込んで話を続けました。伝道は迫害が起きてからが勝負だと言えるかもしれません。私たちは迫害や問題が起きるとひるんでしまうことがあるかもしれません。問題にぶつかったら、へこむのか、それとも勇気を出して一歩踏み出すのか、私たちは選択することになります。一歩踏み出すのは、あきらめないからです。あきらめないとは、神の約束を信じるという選択です。世の中で「あきらめない」と言うとき、悔しさをバネに頑張るといった意味合いである場合が多いのですが、クリスチャンにとっては、見える状況がどうであれ、神が最善をなされ、必ず御言葉を成し遂げられると信じることです。


『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:18〜22)


常識的に考えると、老人となったアブラハムとサラに子供が与えられることは信じがたいことです。しかし、アブラハムは神の約束を単なる励ましと受け止めたのではなく、そのとおりに成就すると信じました。私たちは神の約束をどのように受け止めているでしょうか。


『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:1〜5)


アブラハムには神がともにいるという平安がありました。神が人をさばくとはどういう事か、私たちは誤解しています。神の裁きとは、災いを通してもたらされるのではありません。神の裁きとは、神がその人から離れることです。神がもはやともにおられないと、その人は平安を失います。人が誰かを何かをさばくとき、神はその人から離れ、その人は平安を失います。ですから、平安を失っているときは、誰かをさばいている証拠です。しかし、神によって救われたという感謝があるのなら、さばくという発想は出てきません。罪人の自分が神の一方的なあわれみで救われたと言うことを、日々感謝しながら、平安の中で生きていきましょう。



神木イエス・キリスト教会


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