『…パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」』(新約聖書 使徒の働き 23:6)
パウロはこれまで、イエス・キリストのことを語り続けてきました。しかし、まともに話しても人々は耳を傾けるどころか、ますます混乱する状況の中、パウロは議会の中の人々同士の対立を見て取り、巧みにそこを突き、混乱状況から抜け出すことができました。これは、パウロ自身のこれまでの知識や経験によるものではなく、神の知恵です。御言葉にはこのようにあります。
『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:5)
神は知恵を求めなさいと言われます。知恵は人の知識ではなく、神からのものであり、賢く生きるため、また、後悔しない生き方のためのものです。私たちはつい、目先のことに囚われてしまいますが、それよりも大きな物差しで見て、今何をするべきかを考えるために必要不可欠なものです。それを求めるなら、神は惜しげなく与えてくださいます。
『その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。』(新旧約聖書 使徒の働き 23:11)
議会の混乱の後、パウロは保護された状態ですが、まだ解放されていません。これまでの数々の困難の時、いつも神の奇跡によって助け出され、自由の身になってきたパウロですが、今回はそのようにはいきません。当然、彼は祈っていたことでしょう。正直、不安な思いもあったでしょう。その時、神は彼がまさに必要としていた励ましを与えてくださいました。
人は励ましを必要としています。神はいつでも私たちを励まそうとしておられます。聖書には多くの励ましの御言葉が書かれています。それなのに、私たちはいつも励ましを受け取っているわけではありません。神が励ましを与えるのは、神に助けを求める人に対してであり、自分で何とかできると思っている人は、励ましません。困難、つらさを感じるときは、無理せず神に頼ればよいのです。イエスさまは「私は医者である」と言われます。体の不調を感じれば病院へ行くのですから、心がつらいときは医者であるイエスさまのもとへ行けばよいのです。そのとき神ご自身が私たちにとってまさに必要な励ましを与えてくださいます。
『夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。…ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営にはいってパウロにそれを知らせた。
そこでパウロは、百人隊長のひとりを呼んで、「この青年を千人隊長のところに連れて行ってください。お伝えすることがありますから。」と言った。
…千人隊長は彼の手を取り、だれもいない所に連れて行って、「私に伝えたいことというのは何か。」と尋ねた。…そこで千人隊長は、「このことを私に知らせたことは、だれにも漏らすな。」と命じて、その青年を帰らせた。そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。」と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。
…騎兵たちは、カイザリヤに着き、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。』(新約聖書 使徒の働き 23:12〜35)
パウロの姉妹の子が、パウロへの陰謀を耳にしました。これを偶然と考えるでしょうか?陰謀を知ったこの青年は、すぐパウロに知らせ、神から知恵を得たパウロは青年を千人隊長のもとへ送り、陰謀の話を聞いた千人隊長は即座にパウロをローマ総督の下へ護送できるよう手配をします。神はパウロにローマで伝道するよう言われましたが、その通りに事が進んでいることを見ることができます。偶然ではなく、神がすべてを背後で導いておられるのです。
パウロはとらわれの身であり、彼のいのちはローマ人の手の中です。自分ではどうすることもできません。私たちはどうでしょうか。自分でどうにでもなると思っていても、実はそうではなく、私たちのいのちは神の手の中にあるのです。私たちの人生は、船に乗っているようなもので、自分で何とかしようとして、船から飛び降りれば生きてゆけません。神に委ねるしかないのです。私たちがすべてを神に委ねるなら、神は船を進め、必ず目的地へ到達します。
私たちは、何か予期せぬ事が起こると、動揺したり、怒ったり、つぶやいたり、悲しんだりしますが、すべての出来事は、その出来事が問題なのではなく、神と私たちの間の問題です。神は何かを用いて、いつでも私たちに語りかけ、導いておられます。そのことに目を留め、出来事も、自分の心も神に委ねるなら、私たちは神の愛をさらに深く知り、砕かれるという恵みへと到達するのです。 |