『…彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。(新約聖書 使徒の働き 21:4,5)
…彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。』(新約聖書 使徒の働き 21:10〜14)
パウロはこれまでの伝道の成功によって、高慢になり、弟子たちの忠告を聞き入れようとしませんでした。人はうまくいっているときほど助言を聞かないものです。そして、高慢の結果、ある事件が起こります。
『…次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。…パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。
彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。…ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、…あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳にはいるでしょう。ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。…」
そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮にはいり、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物をささげる日時を告げた。ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。「イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。…そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出した。…』(新約聖書 使徒の働き 21:17〜30)
パウロはこれまで救いは恵みによるのであって、行ないによるのではないことを主張してきました。しかし、ここへ来てユダヤ人の長老たちに妥協して律法の慣習を行なってしまいました。そこには自分の感覚による判断があります。高慢になると神に目を向けなくなり、自分の感覚を頼り、神のことばよりも人の言葉を聞き、見かけを繕う方へと傾いていきます。
ここで、高慢とは何か、御言葉によって定義しましょう。
『違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。』(新約聖書 テモテへの手紙
第T 6:3〜5)
高慢とは、神のことばに同意できない状態のことです。聖書のある部分は同意し、ある部分は間違っていると思い、同意しない。同意するしないを自分で決めています。それは神よりも自分の判断を優れているとする自己中心の状態です。神中心の場合、聖書のことば(神のことば)ゆえにアーメンと同意できるのです。自分よりも神が上であると知っているからです。
自己中心の状態にあると、自分の価値も自分で集めなければならなくなります。神がすでに価値ある者として自分を造ったと聖書に書かれていることを信じられないからです。そのため、高慢な人には次のような特徴があります。
1.ねたみ、争い
自分の価値を見出すために人と比較し、そこにねたみや争いが生じます。人が高慢であるかどうか、私たちは態度で判断しがちですが、見えるところでは謙遜なようでも、心の中にねたみ等があるのなら、高慢です。自分の心が高慢だと認められるでしょうか。謙遜とは、見かけではなく、神のことばに耳を傾けていることです。
2.敬虔を利得の手段とする
敬虔であろうとする目的が問題です。もし、自分が認められるために敬虔な振る舞いをしているのなら、パリサイ人と同じです。本当の自分をごまかし、表面で人や自分を見ているのです。
3.見えるものを頼る
私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、何一つ天に持って行くことはできません。頼ることができるのは神だけですが、神を見失うと、見えるものによって自分の価値、存在を支えようとしてしまいます。
高慢を避ける道があります。
『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』(新約聖書 テモテへの手紙
第T 6:6〜7)
私たちの欲望にはきりがありません。この御言葉は自己中心にならないためのよき制限を与えてくれます。
『事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。…』(新約聖書 コリント人への手紙 第T 1:21)
神を知るために必要なのは、自分の知恵ではなく、信じることです。もし知恵によって神を知ったら、人は自分の知恵を誇ります。しかし、私たちが本当に知りたいことは何一つ、人の知恵によっては見つけられません。私たちはどこから来てどこへ行くのか・・・。
私たちは必ず何かを信じて決断して生きています。自分の未熟な経験を信じるのか、それとも神のことばを信じるのか、どちらかを選択しています。人が何かを信じるとき、それを納得し理解したから信じるのではなく、信じるという決断をして信じるのです。私たちは御言葉をすべて理解してはいませんが、イエス様を信じる決断をして、信じました。その決断をしたなら、聖書のことばすべてを信じる決断も同時にする必要があります。
高慢になってしまったパウロですが神様から高慢を避けるために教えられたことがあります。
『…私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙
第U 12:7〜9)
私たちは高慢にならないようにと神様から自分に与えられたとげを自覚しているでしょうか。私たちは何かが人と比べて劣っていると罰だと捉えることがあります。しかし、自分の弱さは、神様の栄光が表れるためだとパウロは気づきました。私たちが持つ弱さも神様が造られたのです。その目的は、私たちを高慢から守るためです。自分が高慢にならないために与えられた弱さを自覚すればするほど、私たちの心は高慢から守られ、真に謙遜な者に変えられていきます。 |