『週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。・・・ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。・・・人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。』(新約聖書 使徒の働き 20:7〜12)
ここに一つのエピソードがあります。居眠りして窓から落ちて死んだ青年が生き返りました。彼が死んだのは自業自得だったと言われるかもしれませんが、神様は彼をあわれみ、生き返らせてくださいました。私たちもまた自業自得と言われるようなことをやっています。それでも神様は私たちをあわれみ、赦してくださったことを忘れてはなりません。
『パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。』(新約聖書 使徒の働き 20:17〜19)
パウロは別れを前に長老たちを呼んで大切な話を始めます。そこでまず、彼が主に仕えてきたと明言することで、私たちが仕える対象が神様であることを再確認しています。
『・・・けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
・・・ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。』(新約聖書 使徒の働き 20:24〜26)
次に、パウロは自己責任の話をしています。私たちが福音を伝え、相手がそれを信じるか信じないかは相手の責任であって、私たちには責任がありません。もし福音を信じないなら、そう選択したその人の責任なのです。私たちは人生の中で一つ一つ自分で選択しながら生きています。その選択の責任は自分にあるので、うまくいかないからと言って誰かのせいにすることはできません。
『あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。』(新約聖書 使徒の働き 20:28)
教会においても、世の中の組織においても、自分がリーダーだったらどうするか、それを考えながら行動することが大切です。それが組織にとって益となります。
『私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。』(新約聖書 使徒の働き 20:29〜31)
教会を荒らす者の特徴は、自分に関心を向けさせることです。人間的な同情、好意を誘い、人を引き込み、派閥を作ります。しかし、教会は人間的組織ではなく、キリストの体であり、神様の組織であって、一人一人が神様と直接つながる場です。神様と人の間に誰も介在してはなりません。
曲がった教えを見極めるには、2つのポイントがあります。1つ目は、誰を救い主としているかです。私たちはイエス・キリストが救い主であり、神様であると信じています。しかし、いくら聖書を引用していても、イエス・キリストを神様ではなく人であるとしたり、救い主ではないとする教えは間違った物です。
2つ目は救いの方法についてです。聖書はイエス・キリストを信じる信仰によって救われると教えています。しかし、良い行ないをしなければならないとか、何かしらの行ないを救いの条件とし、信仰による救いを覆す教えは間違いです。
以上の2つのポイント以外の教えに関しては、教会によって、牧師先生によって、少しずつ違う解釈があるかもしれませんが、救いに関すること以外については、多少異なってもたいしたことではなく、神様も教会ごとの個性として解釈の違いをゆるしておられます。それを大きな問題としてしまうと逆に混乱を招きます。
『いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。』(新約聖書 使徒の働き 20:32)
私たちの心を育成するのは聖書の御言葉です。それ以上のものはありません。ですから、心が不安になったり、イライラしたり、落ち込んだりといった平安のない状態に陥ったとき、回復させるのは御言葉です。私たちは体の病という問題に対しては、病院へ行ったり、薬を用いたりと、ふさわしい解決法を知って適用します。また、数学の問題に対しては、ふさわしい公式といったルールを用いるでしょう。それなのに、心の問題に関しては、最もふさわしい御言葉というルールを使わず、何か別のものに頼ろうとしてしまいます。しかし、御言葉以外のどの手段も心の問題を解決することはできません。
それでは、心に平安がないとき、どうしたらよいのでしょうか。心に平安がないのは、御言葉とどこかがずれているからです。自分がどの御言葉とずれてしまったのか、それを探しましょう。心に平安がなくなるときは、人間関係による場合が多いでしょう。聖書には、夫婦間、親子間、上司と部下、そういった関係においても、それぞれの立場の人に対して御言葉があります。(新約聖書 エペソ人への手紙 5:21〜6:9参照)
また、すべての人に対して、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という御言葉が語られています。その御言葉に自分は従っているかどうかを考えるなら、たいていの場合、そこからずれています。私たちは誰かのことをこんなことを言った、あんなことをしたと訴えるでしょう。しかしそれは私たちが相手に条件をつけて、相手がその条件から外れたと言って怒ったり、イライラしているのであって、条件をつけてしまった自分が悪かったのです。問題は人を愛せない自分の罪であることに気づくでしょう。
人を愛せない自分の罪に気づき、悔い改めるなら、神様はゆるし、心に平安を与えてくださいます。私たちはこのように御言葉によって癒され、成長するのです。問題を複雑に考えると、惑わされます。神様の解決はシンプルです。心に平安がないとき、問題は他人や環境にあるのではなく、自分の心が神に向いておらず、御言葉とずれているからです。どの御言葉とずれているのか探しだし、心を軌道修正することが解決です。
『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』(新約聖書 使徒の働き 20:34,35)
与えるということを自分の力でやろうとすると限界があります。神様に頼ることなしに、神様の愛に満たされることなしにできないのです。だから幸いなのです。子供が親に自分の主張ばかりするように、幼子のクリスチャンは受けることばかりを求めます。しかし、大人のクリスチャンは、自分のことよりも他の人のために心を用い、注ぎ出します。そうすると神様がさらにその人を満たしてくださるのです。この素晴らしい恵みを、パウロは長老たちに最後に言い残し、また次の場所へと旅立ちます。 |