パウロがアジヤにおいて伝道をしているとき、大騒動が起こります。銀細工の職人たちが、パウロが偶像を神ではないと言い、多くの人がそれを信じるようになったことで、アルテミス大女神の偶像を造る自分たちの仕事がなくなること、また大女神も顧みられなくなると危惧し、大騒ぎを起こし、パウロの弟子たちを捕らえました。このため町中が混乱に陥りました。そのような状況の中から、今回も神様はパウロの弟子たちを助け出しますが、その方法に注目したいと思います。
これまでもペテロやパウロが牢に入れられるということが起こりましたが、そのたびに神様は超自然的な方法で助け出されました。私たちは奇蹟を求めるとき、超自然的な方法での奇蹟を期待してしまいがちです。しかし、重要なのは方法ではなく、結果であることを忘れてはなりません。今回の騒動は、超自然的な方法によってではなく、クリスチャンではない一人の書記官の理性ある言葉によって解決しました。
超自然的な方法でなければ、神様が介入していないと考えるでしょうか。神様は助けてくださらなかったというのでしょうか。そうではなく、結果として助けられたのですから、それが神様の奇蹟なのです。方法にとらわれると、神様のされることが見えなくなります。病のいやしも、超自然的にいやされる場合もあれば、病院で治療を受けていやされる場合もあり、どちらにしても神様によって癒されたのであり、私たちは神様に感謝すべきです。
神様は人が手段を気にすることをご存じです。ですから、よく私たちが想定する手段を裏切ることをされます。人々は救い主が王宮に生まれることを期待しました。しかし、イエス様は馬小屋で生まれました。また、イエス様がエルサレムに入城するとき、人々は王として馬車に乗って来られることを期待しました。しかし、イエス様はロバに乗って来られました。乗ると言えば、人は何に乗るかをよく気にします。しかし、移動することが目的ですから、何に乗ろうと移動できれば感謝なのです。また、クリスチャンは人の救われた経緯を聞いて、ドラマチックな救いの体験とドラマチックでない自分の体験とを比べてしまうかもしれません。しかし、重要なのは経緯ではなく、救われたという結果であり、それを感謝するべきなのです。
この箇所で登場する銀細工人たちは、偶像を造っていたわけですが、なぜ人は偶像を造るのでしょうか。また、なぜ死んだ人を神として祀るのでしょうか。それは思いを叶えたいからです。自分の思いを叶えてくれるご利益のある神を造り、それを拝むのです。では、なぜ思いを叶えたいのでしょうか。それは、思いが叶うことで人からほめられ、認められるからです。では、なぜ人から認められたいのでしょうか。それは、人から認められることによって自分の価値を確認したいからです。また、銀細工人たちはパウロたちに対して怒りました。なぜ怒るのでしょうか。これもまた、自分の思い通りにしたいという意志の表れです。思い通りにならない相手を支配するために怒るのです。
偶像を造ることも、怒ることも、いずれも自分の思いを達成し、そこに自分の価値を見出したいからであることが分かります。しかし、ここでも大騒動が起こったように、私たちが自力で自分の価値を求めるとき、問題が起こります。人間の問題の解決は、人間的手段によらず、創造主が定めた自分の本当の価値を知ることです。もし人間が偶然に生まれたのなら、そこに価値を見出すことは難しいことです。しかし、神様によって造られた者であるなら、一つとして同じものはなく、一つ一つが尊く価値あるものであることが分かります。自分を造られた神様を認めることが、自分の価値を知る第一歩となります。
私たちはよく、自分を痛めつけ、追い込むような言葉を語っています。それは自分の本来の価値を知らないからです。また他人に対しても、傷つけ、損なうようなことをしてしまうのは、その人の価値を知らないからです。神様に造られた自分の価値を本当に知るなら、他人の価値も分かり、自分も他人も大切にできるのです。
創造主を知り、自分の価値を知り、私たちは今までの価値観が間違っていたことに気づき始めます。私たちには多くの思いこみがあり、実はそれが私たちを苦しめているものなのです。自分の価値も、自分で獲得しなければならないという思いこみもその一つでした。このように自分の思いこみが間違っていたことに気づいたとき、素直にそれを神様の前に謝ることができるなら、私たちはさらに価値観が変えられ、心を縛っていた思いこみから解放されます。聖書の言葉を読む毎に、自分の間違った思いこみを悔い改め、神様の価値観を持つようになるなら、私たちはますます本当に価値あるものを知るようになります。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)
神様が私の内に生きておられる。神様が相手の内に生きておられる。それを認識するなら、私たちの言葉や行動は変わるでしょう。それまでは認められること、愛されることを求めて問題が起こっていました。しかし、神様に造られ、神様が内に生きておられる、価値ある自分、そして相手だと知ることにより、愛されることよりも愛することを求めるように、私たちは変えられてゆきます。 |