『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』(新約聖書
使徒の働き 19:11〜12)
今日の箇所には、奇蹟が行なわれた場面が出てきますが、神様の奇蹟について学びます。世の中にも「奇跡」の話はたくさんあり、人々は興味を持ちます。世の中の宗教にも、奇跡によって人を惹き付けて、人をコントロールするものがあります。しかし、イエス様は、人をいやす奇跡を行なったとき、それを多くの人に見せようとするどころか、むしろそのことが他の人に知られないよう、いやされた人に黙っているようにと言いました。私たちの神様にとっての奇蹟は、人をコントロールするためではなく、その人にとって本当に必要なときに行なわれるものだからです。そして、人に知られないように配慮されたのは、目に見える奇蹟によって、本当の奇蹟を見失わないためでした。
神様は私たちが見える奇蹟によって信じるのではなく、神様のことばを、神様が語られたゆえに信じることを望んでおられます。そのことが次の箇所に表れています。
『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』(新約聖書
ヨハネの福音書 20:27〜29)
私たちには奇蹟について間違った認識があります。その一つは、奇蹟を信仰のバロメータとして見ることです。見える奇蹟が起こると、その人に信仰があるように捉え、奇跡が起きないと信仰がないかのように捉えてしまいます。また、奇蹟を神に愛されているバロメータにするのも同様に間違いです。また、こうすれば奇跡が起きるという方法論的な捉え方も間違いです。奇蹟は私たちの行ないによって得るものではなく、神様の一方的な恵みだからです。
聖書の中には、奇蹟を約束することばが書かれていますが、それが一般的に語られている言葉(ロゴス)か、特定の人に語られている言葉(レイマ)かを見分ける必要があります。レイマをロゴスと取り違えて、自分にその奇跡が起こると捉えてはいけません。
私たちはよく病のいやしを求めます。病のいやしを求めてよいのですしかし、それは問題の根本的解決ではないことを忘れてはなりません。病がいやされても私たちは必ず死にます。私たちの一番の問題は死です。しかし、その問題の解決を神様は私たちに与えてくださいました。それが何よりも凄い奇蹟です。それは十字架と復活です。イエス様が十字架にかかられたことで、私たちは罪をゆるされ、自由にされました。そして、イエス様が復活されたことで、私たちは新しく生きていけること、やり直しができることを知りました。それが最も重要な奇蹟です。
『あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』(新約聖書
ガラテヤ人への手紙 6:12〜15)
「割礼」を「奇蹟」に置き換えて読んでみましょう。私たちは何のために神様に奇蹟を求めるのでしょうか。外見をよくしたいからでしょうか。神様に愛されていると確認したいからでしょうか。だとしたら、それは行ないによる信仰です。神様は私たちにすでに最も重要な奇蹟を与えておられることを忘れてはなりません。見えるところに惑わされ、つぶやいていないでしょうか。今、生きていることも、与えられている環境も、すべてが神様の奇蹟によるのです。それは私たちが獲得したのでなく、神様の恵みです。私たちは今、神様の奇蹟の中に生きています。 |