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2007年8月12日
主の幻について
(新約聖書 使徒の働き 18章1節〜16節)

パウロはアテネを去り、コリントでの伝道を開始しますが、ここでも主は助ける人を備えてくださいました。同じように、私たちが問題にぶつかるときも、主は解決に必要なものを備えてくださいます。

パウロはいつものように会堂に行ってはユダヤ人とギリシャ人たちにイエス・キリストの話をしました。しかし、多くのユダヤ人は自分や人の価値を行ないによって測っていたので、イエス・キリストの福音を聞くと、行ないが否定されたように思われ、パウロに反発していました。そんな中で、主はパウロに幻によって語りかけます。


『ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。』(新約聖書 使徒の働き 18:9,10)


ここに、主が幻によって語られたことが書いてありますが、預言者と言われる人は、幻によって主の言葉を受け取り、それを人々に伝える人のことです。しかし、終わりの日には偽預言者が現れると、イエス様は言われました。現代は、主の言葉を預かる「預言者」ではなく、未来のことを予見する「予言者」という言葉の方が浸透し、テレビでもそのような人たちが登場し、もてはやされていますが、主が言われた「偽預言者」とは、次のような人です。


『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。』(旧約聖書 申命記 18:20,21)


未来のことを予言しても、実現しなければ偽物であることが明らかです。


『預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。』(新約聖書 エレミヤ書 23:34〜36)


人に「主の宣告」と言ってしまうと、その言葉がその人に負担になってしまいます。神様はそのようなことはしません。私たちが自由に選択できるように情報提供だけされます。しかし、世の中の「予言」は強制的、脅迫的で、人は「予言者」とその言葉に支配されます。


私たちは人生において導きが欲しいとき、この箇所に書いてあるように、「主は何と語られたか」、「聖書は何と言っているか」と問うべきです。そのように求める人を神様は導いてくださいます。


『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:13,14)


神様は私たちを強制的に導くのではなく、私たちの心にそっと願いを起こして導かれます。そして、私たちは願いに基づいて行動しますが、神からの願いであればそれは続き、自分だけの願いであれば、続きません。神は私たちに自由意志を与え、人生においてすべてのことを自分で考え、自分で決め、自分で責任をとることを教えておられるのです。


『ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」こうして、彼らを法廷から追い出した。』(新約聖書 使徒の働き 18:12〜16)


パウロに反発したユダヤ人は、今度はパウロを法廷に訴え出ますが、ローマの総督はこれに取り合いません。彼は、信仰の問題は自分たちで解決するようユダヤ人たちを退けました。これは、私たちに対しても教えられることです。信仰のことを信仰のない人に訴えることは愚かなことです。次の箇所にあるとおりです。


『あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第I 6:1〜7)


世の中で起きた問題は世の中で判断すればよいのですが、クリスチャン同士の問題は聖書によって解決しなければなりません。この箇所にあるとおり、クリスチャン同士で争うこと自体がナンセンスです。相手を訴えることで、もう負けたことになります。何に負けたかというと、「あなたの隣人を愛しなさい」「敵を愛しなさい」という聖書の御言葉に従えない自分に負けたのです。問題の本質は相手ではなく、あなたが神に従ったのかどうかです。本質を見失ってはなりません。



神木イエス・キリスト教会


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