『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」』(新約聖書 使徒の働き 15:28,29)
前回、エルサレム会議において、使徒たちは救いの条件についての認識を統一しました。それは、救いの条件はイエス・キリストを信じることのみであって、割礼をはじめ、かつての律法の習慣を行なうことは救いの条件としないということでした。その決定を受け、使徒たちはアンテオケの教会に手紙を書き送りました。上の節はその一文です。そこには、救いの条件としてどんな重荷も負わせないが、避けるべき事が書かれています。
避けるべき事について、まず偶像に備えた物とあります。偶像とは、人が造った神の像ですが、文字通りの意味以上に、「むさぼり」を意味します。神を第一にとしない行為そのものが偶像礼拝なのです。それは人によってお金、名誉であったり、愛する人であったり様々ですが、神よりも大切な物を持つことです。神を知る前、私たちは神以外の何かを大切に生きてきました。その古い習慣があることによって神を知った今も引き出されてしまう危険があります。それはどんなときかというと、そのヒントは血と絞め殺した物と不品行です。
神は律法の中で動物の血と生肉を食べてはいけないと命じられました。それは、今では常識ですが、それを食べると病気になる危険性があるからです。病気になり、体の調子が悪くなれば考え方も悪くなり、古い習慣に戻りやすくなるのです。また、不品行―良心がとがめる行ないをすると、これもまた古い習慣に戻りやすくなります。そういうわけで、これらのことを避けるよう、使徒たちは手紙に記したのです。
旧約聖書の中で、ソドムとゴモラの町が滅ぼされた場面があります。その時、神はロトの家族に「逃げるときに振り返るな」と言われました。しかし振り返ってしまったロトの妻は塩の柱となりました。私たちはつらいときに過去を振り返ると引きずられて悪い思考パターンに陥ります。私たちはかつて古い習慣、思考パターンに苦しんでいたのを救われました。ですから神はそこに戻るなと言われるのです。
『幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。』(新約聖書 使徒の働き 15:36〜39)
アンテオケに遣わされていたパウロとバルナバですが、この箇所で意見が割れ、喧嘩別れをし、この先、別行動をとることになります。後になって和解するのですが、この事件が私たちに教えていることは何でしょうか。
まず、神はこのことをどう思われたのでしょうか。神は彼らがもっと砕かれることを望んでおられました。ですから、彼らが砕かれるためにあえて好きなようにさせたのです。結果、後になって彼らは砕かれ、和解することになります。旧約聖書に登場するイスラエルの先祖となるヤコブも、若い頃は自分の好きなように生きていました。しかし、どうにもならない状況に追い詰められ、ギブアップしたときはじめて神により砕かれ、神に用いられ、イスラエルの12部族を生み出す父となったのです。
では、神は具体的に何を砕きたかったのでしょうか。それは私たちの古い習慣(考え方)です。パウロとバルナバの主張はそれぞれ聖書的に間違ってはいません。しかし、問題は彼らが反目したことです。意見が食い違っても、喧嘩せずお互いを受け入れることはできます。きみがそう思うなら別行動をしようと建設的に話すこともできます。しかし、彼らは腹を立てました。それはなぜでしょうか。
人は見えるものに自分の価値を置いているという話をこれまでもしていますが、ここでも彼らはそれをしています。自分の意見が否定されたことで、自分が否定されたと認識したのです。そして自分の価値を回復させるために相手を否定し、拒絶したのです。神はそこを砕きたかったのです。見えるものに自分の価値を置く限り、問題は解決しません。そのことを教えるために、イエス様はあえて馬小屋に生まれました。人が価値あると思うことの逆を敢えて見せたのです。私たちの価値は見えるものによって左右されるのではなく、神がもう価値あるものとして決めているのであって、何によっても変わりません。
行ない=価値ではありません。それは、すべての人が罪人だからです。罪とは神の教えに従わないことです。それは非常に厳しい基準です。たとえ実際に人を殺さなくても、人に「バカ」と言えば、人を殺したことになり、心の中で人を憎めば、人を殺したことになるのです。世の中では行為にいたって罪と認められますが、神はたとえ行為に至らなくても、思いが生まれた時点で罪だと認めるのです。ですから誰も言い逃れはできません。たとえどんなに立派な行ないをしても、神の前にはその人は罪人であり、行ないは罪人である事実を塗り替えることはできないのです。行ないで自分を義とすることはできません。人を義とすることができるのは、イエス・キリストの十字架だけです。だから、行ないに価値を置いてはいけないと神は私たちに言われます。自分の価値は神からのものです。他に何も加えません。人と意見が違っても、自分とは相容れない物を見ても、反目しなくてよいのです。
私たちはみなそこから砕かれていきます。そして、自分にはますます十字架が必要であると認識できるなら幸いです。 |