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2007年6月17日
パウロを歓迎する人たち、憎む人たち
(新約聖書 使徒の働き 13章42節〜14章28節)

前回に引き続き、パウロとバルナバが各地を伝道して回っている中で起きた出来事から、学んでいきます。


『会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。』(新約聖書 使徒の働き 13:43)


神の恵みにとどまるかどうかは私たちが自分の意志で選択することです。ですから、恵みにとどまらないという選択もできます。恵みにとどまることを選択していきましょう。


『次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。』(新約聖書 使徒の働き 13:44〜45)


私たちの心には嫉妬やねたみがありますが、それを隠そうとします。実は私たちが人を憎んだり、批判したりするとき、その裏には嫉妬、ねたみが隠れています。それを素直に認められればよいのですが、これは私たちが比較の中で自分の価値を見出そうとしている限り、やみません。私たちは、私たちを造った方の目的を知る必要があります。一人一人に、造り主である神様の目的があり、それは優劣をつけることができません。本来比較できないことを無理に比較して、その結果、嫉妬やねたみが生まれます。ねたみに燃えたユダヤ人に対して、パウロたちはどうだったのでしょうか。


そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。こうして 、主のみことばは、この地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


再三に渡る迫害にもかかわらず、パウロをはじめ弟子たちは、喜びと聖霊に満たされていました。それは比較の中で生きていないからです。造り主の目的を知り、神との関係の中で自分を捉えるなら、外側の状況に左右されないのです。


『イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。』(新約聖書 使徒の働き 14:1〜4)


イコニオムという場所でも、前に訪れたアンテオケ同様、パウロの言葉に対する人々の反応は二分しました。パウロの言っていることは変わらないのですから、これは聴く側の物差しの違いによります。人を判断する物差しを決める物をここで3つ挙げます。


1. 誰が造ったか

美術品の価値は誰が造ったかによって決まります。たとえその作品が理解できなくても、ピカソが描いたというだけで、人々は貴重な物として大切に扱います。人は皆、神の作品であると聖書に書かれています。神様に失敗はありません。ですから、私たちは皆、尊い大切な存在であることが分かります。


2. 自分の罪、弱さの自覚

自分の罪深さ、弱さを認めれば認めるほど、人を責めることはなくなります。己を知ることが人を愛する道です。


3. 神の赦しを知る

自分の罪や弱さを知ると、神様に赦され、助けられる体験をします。神様がどんなにあわれみ深く、日々、弱さを担ってくだっているかを知るほどに、人に対する見方も変わってきます。


『・・・ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。』(新約聖書 使徒の働き 14:8〜10)


パウロは足の不自由な人に信仰があることを見ました。信仰は目に見えるものであることが分かります。どのようにして見えるのでしょうか。この人はパウロの話に耳を傾けていたとあります。別の箇所には「信仰は聞くところから始まる」とあるとおり、御言葉を聴く姿勢によってその人の信仰を見ることができます。また、ここには書かれていませんが、語る言葉もまた信仰をあらわします。まだ起こっていないことに対して、どういう言葉を語るのか。現実に起こったから語るのではなく、信じているから語り、そこから一歩踏み出すことを通し、その人の信仰が現れます。


ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。


『彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。』(新約聖書 使徒の働き 14:19〜22)


ねたみに燃えたユダヤ人たちはとうとうパウロを石打ちし、殺してしまいました。ここでは死んだとは書かれていませんが、彼らが死んだと思ったということは、それほど生気がなく、息や脈もなく、まさに死んだ状態であったと思って良いのではないでしょうか。しかし、彼は生き返りました。この短い節の中に、奇蹟が起きたのです。そして驚くべき事に、彼は彼を殺した人たちがいる町に再び入っていったのです。彼はなぜそんな危険なことができたのでしょうか。それは神の守りを信じていたからです。神様にとってパウロは私たちより特別だったからだと思うでしょうか。そうではありません。彼が神の守りを信じることができたのは、彼が神の御心を見出し、その御心に従っていたからです。私たちがつまずくのは、御心に従っていないからです。


私たちは皆、神様が必要だから造られました。そして神様の目的のために賜物を与えられ、環境を与えられました。まずはその目的を見出すために神様に向かいましょう。私たちが自分の造られた目的を知り、その目的に従うとき、神様の絶対的な守りを信じることができます。



神木イエス・キリスト教会


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