『さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。
・・・人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。
さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。』(新約聖書 使徒の働き 11:1〜22)
ペテロを通し、異邦人の家族が救われ、アンテオケでも異邦人が救われるといった情報が入ってきて、ユダヤ人しか救われないという弟子たちの思いも変わっていきました。同様に神様は私たちの思いを変えようとしておられます。思いが変わるとは、神様の思いに近づくということです。私たちの思いと神様の思いにはギャップがあります。そのギャップが埋まっていくことがすなわち信仰の成長です。
弟子たちはユダヤ人以外救われないという思いを持っており、神様はユダヤ人に限らずすべての人を救いたいという思いを持っておられました。しかし、神様は弟子たちの思いを変えるために、いきなり世界宣教へ行けと命じたのではなく、コルネリオの家族の救い、アンテオケでのギリシャ人たちの救いを示しながら、少しずつ彼らの思いを変えられました。私たちの思いもいきなり変わるのではなく、少しずつステップを踏んで変えられていきます。
ダビデが自分にはゴリアテを倒すことができると信じることがでいたのは、その時いきなりそうできたのではなく、小さい頃から獣を倒す術を訓練され身につけていたからです。私たちもいきなり大きな事をチャレンジするのではなく、まずは信じられるところからやっていきます。できることをやっていくことで、神様が後押ししてくださり、信仰が成長していくのです。しかし、何もしなければ何も変わりません。
『彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。』(新約聖書 使徒の働き 11:23〜26)
さて、ここにバルナバという人物について書かれています。弟子の一人である彼はとにかく励ます人でした。その最大の功績はサウロ(のちのパウロ)を育てたことだと言われます。サウロはクリスチャンになったものの、それ以前は教会迫害の先頭に立っていた人物であったため、弟子たちは感情的に受け入れられないでいました。しかし、バルナバだけは彼を受け入れ、訓練している様子が書かれています。バルナバのことを「聖霊と信仰に満ちている人」と書かれていますが、それは別の言い方をすれば、いつでも神に信頼できる人だということです。神に信頼していたからこそ、サウロのことも恐れずに受け入れることができました。神がすべての責任をとって下さると知っていたからです。その姿勢は、私たちの見習うべきところです。
『このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』(新約聖書 ローマ人の手紙 6:11)
思いが変えられるということに話が戻りますが、この聖句の最後に「思いなさい」とあります。これは原語では「計算しなさい」という意味と同じです。「罪に対しては死んだ」とあっても、実際は毎日罪を犯す私たちです。それでも「罪に対しては死んだ」と思いなさいと神は言われます。私たちの現実と神の思いには確かにギャップがあります。しかし、自分の現実に思いを支配されるのではなく、神の思いを自分の思いにしていく必要性がここに書かれています。
イエス様は私たちに聖餐式を行なうように命じられました。それは、イエス様の十字架の意味、すなわち私たちの罪を赦すための代償としてイエス様が死なれたことを、思い出すためです。「イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられた、だから私たちは罪に対して死んだ者なのだ。」そのことをいつも私たちの意識に語りかける必要があります。
ただ、私たちがそのように努力すれば、それだけで信仰が育つわけではありません。努力だけで育つのでは人間的な「信念」になってしまいます。信仰の成長には神様の助けが必要です。私たちが自分にできることをするのを見て、神様は助けてくださいます。私たちは神様に近づくほど、自分の状態と神様の思いとのギャップを照らされ、愕然とすることでしょう。しかし、ギャップがあってよいのです。それを照らされたときに、神に悔い改めることが大切です。それによって神様は私たちを助けてくださり、私たちの神様への信頼はいっそう深くなるのです。
さて、神様への信頼を邪魔するものがあります。それは私たちが神に求める物を間違うことです。神様は私たちに何でも求めて良いと言われます。ですから何を求めても良いのです。しかし、最終的に最も何を求めるべきかということを、神様は明確にしておられます。それは「砕かれること」です。あるいは、へりくだること、きよくなること、言い回しはいろいろですが、その中で自分の感覚にフィットすることばがあるでしょう。どれも意味は同じです。それを真に求めているのでなければ、その人は成長しません。砕かれることを求める人は、神に近づくほどに自分を照らされ、愕然としても、それを喜びとしてついて行くことができます。神様のあわれみを体験するからです。
求めているものが正しいか間違っているか、それは私たちの心の状態によって分かります。私たちが感謝できないとき、つぶやくとき、つまずくときは、砕かれることよりも自分の栄光を求めています。そのようなときは、悔い改めて軌道修正し、神様が私たちに求めている「砕かれること」を喜びとして生きていきましょう。
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