『サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』(新約聖書 使徒の働き 8:1〜8)
イエス様の復活、昇天後、弟子たちによって福音が広められ、エルサレムで大リバイバルが起きると同時に、迫害も勢いを増してきました。ステパノは最初の殉教者となり、多くの人がエルサレムを追われ、散らされていきました。クリスチャンにとって迫害は厳しい状況でしたが、それによってキリスト教が全世界へと広まることになりました。これは神様の計画によることでした。神様は迫害を止めることもできましたが、敢えてそれを逆手にとり、主の栄光に変えられたのです。
神様はすべてのことに計画を持っておられます。私たち一人一人に対しても、計画を持っておられます。それは次の御言葉にあるとおりです。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:11〜13)
神様が与えようとしている平安を手にするためには、私たちに必要なことがあります。それはこの御言葉に書いてあることですが、次の3つのことです。
1.つぶやかない
12節に「わたしを呼び求めて歩き」とあるのは、つぶやかずに主に期待するということです。大迫害の中で、人々はつぶやいて信仰を捨てることもできました。しかし、つぶやかずに主にはご計画があると信じて信仰を守る選択をした人もいました。だからこそ福音が全世界に広まったのです。私たちの前にはいつも、つぶやいてあきらめるか、つぶやかずに期待するか、2つの選択肢があります。
2.主に信頼する
「私に祈るなら」、つまり主に信頼しているということです。
3.平安の意味を探し求める
「わたしを捜し求めるなら」とありますが、これは主を指すと同時に、平安をも指します。なぜ、平安の意味を探し求める必要があるのでしょうか。それは、神の考える平安と人の考える平安は全く違うからです。そのことを示すのが使徒パウロの言葉です。パウロの祈りによって多くの人が癒されましたが、パウロ自身の病は祈っても癒されませんでした。その中で彼は弱さの中に主の恵みが示されることに気づき、平安を得ました。私たちは自分に自信を持てたときに平安を得ると思いますが、それは実は真の平安ではありません。神様が与える平安は、自分の弱さに気づくことによって得られるのです。自分の弱さを認め、主の恵みを見つけ、主と心が一つになったとき、人ははじめて真の平安を得ます。ですから、自分に自信をつけることではなく、自分の弱さに気づき、それを通して主に祈り求めていきましょう。
『・・・ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。』(新約聖書 使徒の働き 8:12〜24)
シモンという魔術師が救われたことは、救いが神によることを示します。人の判断では救いに遠いと思われるような人も、神様は救うことができるのです。そのシモンですが、神の賜物を金で買おうとしてペテロの叱責を受けます。しかし彼の姿は私たちの姿でもあります。神にほしい物をもらおうとするなら、同じ事です。人はそういったご利益を求めるので、多くの宗教がそれに答えるべくできました。しかし、神が私たちに与えたい物は、罪のゆるしによる真の平安です。
欲望を満たすことで平安を得ようとするなら、真の平安を手にすることはできません。平安は、神のことばを基準に生きることです。神の関心は私たちの持っている能力ではなく、私たちの生き方です。私たちは必ず死ぬのですが、死というどうにもできないものがあるからこそ、自分の弱さに気づくことができます。これは神の恵みです。自分の欲望から発する平安ではなく、神から来る真の平安を得ることを追い求めるなら、必ず与えられる時が来ます。 |