『彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。』(新約聖書 使徒の働き 5章27節〜33節)
ここで、ペテロが「人に従うより、神に従うべきです」と言っています。人に従うとは、言い換えれば、人の目を気にするということです。人に認められること、賞賛されること、バカにされないようにすること・・・そういったことは、誰もが生まれた時から求める習慣を持ってきました。赤ちゃんも親がほほえんでくれることを期待します。
人の目を気にする生き方、ほめられるための生き方には長所と短所があります。まず、長所は1.しつけに即効性があること。2.心がすぐに満たされること。3.目標設定が容易で、やる気が出る。ということです。
それに対して短所は、1.自分はダメだというイメージが拡大する。ほめられようとするのは、自分はダメだという前提があるからであって、ほめられようと頑張れば頑張るほど、ダメなセルフイメージが無意識の中に拡大します。(世の中の考え方はダメなものを良いものにしようとする二元論的考え方です。聖書は神が造った良いものをさらに良くしようとする一元論的考え方です。)2.心が常に飢えた状態。心がすぐに満たされるとは、裏を返せば、満たされるのは一時的ですぐに渇き、いつも渇いているということです。3.不安、恐れが増大する。評価されないこと、失敗することへの恐れが常につきまといます。
結論として、人の目を気にする生き方は人を苦しめることが分かります。「渇く→ほめられようと頑張る(あるいはバカにされること、悪いことで存在を認めてもらう)→一時的満足→渇く」という悪循環を繰り返すのですが、依存症と同じでなかなかやめることはできません。
人は一時的満足しか与えることはできません。そもそも人が誰に造られたのかを考える必要があります。人は神によって造られたのですから、神しか本当の満足を与えることはできないのです。ですから渇いたときに求めるものを変えることが、悪循環を断ち切ります。
ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。
そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
『そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。』(新約聖書 使徒の働き 5章34節〜42節)
ここでガマリエルが言ったように、人から出たものは滅び、神からのものは残ります。人からの賞賛、評価は何も残りません。そしてむなしさを生みます。世界で賞賛された有名人で自殺した人は何人もいます。人から賞賛されることは一時的な満足を得られても、ますます渇いてむなしさだけが残るからです。しかし、神のことばは残ります。だから私たちは神のことばに従うのです。それによって、私たちのうちに御霊の実(愛、喜び、平安・・・)が結ばれ、成長し、いつまでも残るのです。
成長を妨げるのは世の心遣い(人の目を気にすること)だと聖書にはっきり書いてあります。神を信じて救われたクリスチャンとして、私たちはもう一度、神のことばに従って生活する決心が必要です。私たちが天へ持って行けるのは、神からのものだけです。私たちの心の中に愛はあるでしょうか。御霊の実はあるでしょうか。それが成長するために、この地上で私たちは神のことばに従う訓練を受けているのです。さらに聖書にはこのようにあります。
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 7章37,38節)
人からのものを基準にして、私たちは常に渇いていました。そんな私たちにイエスさまは大声でこのように言われました。神のことばに従うとき、私たちの心の奥底から御霊の川が流れるのです。問題にぶつかったとき、私たちはどうしているでしょうか。見えるものに手を出して、小手先で解決しようとしていないでしょうか。神に祈っているでしょうか。御言葉に解決を求めているでしょうか。頼るものが何もなくなる時、それは神に頼って勝利する時です。渇きを覚えたときは、迷わず神に祈り、御言葉を求めましょう。そこに解決があります。私たちの生きる基準はイエス・キリストであることを忘れてはなりません。 |