『また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。・・・ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。・・・そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕え、留置場に入れた。ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、・・・。そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています。」と告げた。そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。・・・』(新約聖書 使徒の働き 5章12節〜26節)
使徒たちは再び捕らえられました。この知らせを聞いたクリスチャンたちはどう受け取ったでしょうか。つらい出来事に出会ったとき、私たちはたいてい悪い解釈をして、悪い方向へと考えます。しかし、信仰はどんな出来事も良い知らせと考えます。悪く見えることにも宝が隠されていると考えます。当時のクリスチャンたちは動揺しませんでした。それは、前回同様また主が素晴らしいことをしてくださると考えたからです。
なぜ、信仰によって悪い出来事も、良い知らせと考えられるのか、御言葉による根拠があります。
1.すべてのものを良いものに変えると神が約束されたから
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人の手紙 8章28節)
旧約聖書士師記に登場するサムソンという人は、神に選ばれた勇士でしたが、女性に弱く、力の秘密を漏らしたために敵に捕らえられ、力を失いましたが、それも主によって益にされ、後に多くの敵を滅ぼすことができました。星野富弘さんは事故によって体が不自由になりましたが、主はそれを益に変え、口を使って素晴らしい詩画を描くようにされました。悪い知らせがあっても、その後、主は栄光を表すことができる方であると、信仰は認めることができるのです。
2.主は愛する者を訓練される
『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人の手紙 12章5,6〜11節)
旧約聖書に登場するヨブは、神から訓練を受けました。それは、神がヨブを愛しており、彼がもっと神を信頼する者となるためでした。しかし、彼の友人たちは、ヨブに対する神の訓練を不幸が訪れたと取り違え、彼の非のせいだとして、彼を批評し始めます。彼らが言っていることはもっともに聞こえますが、彼らは神の訓練を悪い知らせと捉えてヨブを責めたので、神は彼らを怒りました。私たちも人が困難に出会うと、罰が当たったかのように考えたり、批評家になったりしますが、それは間違いです。困難は、神の訓練の始まりと捉えましょう。
3.神は正しい方向へ導く
『これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。』(新約聖書 ルカの福音書 1章78〜79節)
神は私たちが間違った方向へ行けば、必ず正しい方向へと導いてくださいます。神が間違った方向への道を閉ざす時、私たちは困難にぶつかったように感じます。しかし、神が別な方向へ導いておられると受け取ることができます。
では、神が困難を与える目的は何でしょうか。
『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1章2〜4節)
1.忍耐を養うため
困難によって忍耐が養われ、希望、平安、喜び、義を生みだすと御言葉にあります。この神の約束を受け取る者となるため、神は困難を与えられるのです。忍耐は知識で得るものではなく、体で覚えるものであり、そのために困難を体験することが必要になります。
2.御言葉を教えるため
『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』(旧約聖書 詩篇119篇71節)
私たちの悩みの多くに人間関係によるものがありますが、この問題を経た多くの人が口をそろえて言うことは、自分に愛がなかったことに気づいたということです。これは実際に困難を体験しなければ分からないことです。こういった体験によって知識が肉となります。
3.信仰を増し加える
『このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。』(新約聖書 テサロニケの第一の手紙 3章3,7〜8節)
困難にぶつかっているときはつらいものです。しかし、その中でも動揺せず主に信頼するために神は困難を与えられます。
悪い知らせを良い知らせと信じて前に進み続けましょう。神は私たちの人生を責任を持って助けてくださいます。そして、私たちを愛を持って訓練し、成長させます。困難の後に私たちは必ず訓練を受けて良かったと思うのです。
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