『この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』(新約聖書 使徒の働き 3章11〜16節)
先週の箇所でいやされた男性が礼拝をしているのを見て、人々はペテロのことをすごい信仰の持ち主だと思い、驚嘆しています。そんな人々に対してペテロは、この男性がいやされたのは、人々が十字架につけたキリストを信じる信仰によるのだと語り始めます。
信仰とは、神様がくださった種です。それをどう育て、用いるかは私たち次第です。それによって、人生が変わってきます。では、神様がくださる種である信仰は、具体的にどのようなものでしょうか。
1.やり直しがきく
私たちは失敗したとき、それを隠したいと思います。日本社会は特にその傾向が強く、企業は失態を隠し通そうとします。それは「一度失敗したらおしまい」という意識が強いからです。しかし、神は私たちが何度失敗しても、やり直しのチャンスをくださいます。だから希望を持つことができるのです。聖書の中にも、自分の罪によって失敗しても、神からもう一度チャンスを与えられて、新しく始められた人がたくさんいます。姦淫の現場を捕まったマリヤ、殺人をし、その妻を自分の物としたダビデ、他にも多くの人が、人生のやり直しをすることができました。
2.奇蹟を信じる
私たちが洗礼を受けるときにする信仰告白の中に、イエス・キリストの復活を信じるというフレーズがあります。洗礼を躊躇する人の中には、キリスト教の教えは素晴らしいが、復活が信じられないという人が多くいます。一般的に、死人がよみがえるということは、最も信じがたい難しいことの一つでしょう。しかし、クリスチャンはそれを信じています。
では、今あなたがぶつかっている問題は、復活よりも難しいでしょうか。復活を信じることができるのですから、今ぶつかっている問題も解決されると信じられないでしょうか。私たちは最も難しい問題をすでに乗り越えているのです。ですから、私たちがぶつかるあらゆる問題も、解決されると信じることができるのです。
(復活の事実性は、証拠がたくさんあります。一つは、礼拝の日が安息日(土曜日)から週の初めである日曜日に移動したこと。当時ユダヤ人たちは律法を厳格に守り、安息日の礼拝も固く守っていました。にもかかわらず、ユダヤ人たちの教会で日曜日に礼拝が守られるようになり、今日私たちも日曜日に礼拝しています。また、新約聖書が書かれた時期が、イエス・キリストの十字架の直後であることも証拠の一つです。復活がもし嘘であれば、復活について書かれた聖書は信用しされません。事実を知っている人が数多くいる時に、聖書にはその事実が正確に書き記され、それゆえに信頼される書物として今日まで私たちに伝えられているのです。)
3.人を愛する
私たちの抱える問題の多くは人間関係の問題です。どんなときも相手を愛するということが、私たちにとって非常に難しいことです。どうしても腹が立つ、許せない・・・。最も奇蹟が必要な問題とも言えます。しかし、私たちには人を愛する信仰を与えられています。神がまず私たちに無償の赦しを与えてくださったからです。神に赦され、神に愛されていることを知り、私たちははじめて愛することを知ります。人との関係は神との関係を反映します。人を愛せない者は神を愛せないと御言葉にあります。しかし、私たちに与えられている信仰によって、私たちは神に助けを祈り求め、愛することができるように変えられていきます。人間関係において必要なのは相手が変わることではなく、あなたが愛の人に変わることです。
私たちは問題を解決するための信仰の種をもう手にしています。それを用いていきましょう。私たちが地上での一生を終える時、最後に残る財産は「信仰」だけです。 |