『ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。』(新約聖書 使徒の働き 3章1〜10節)
私たちが知っている「愛」と聖書の言っている「愛」は違います。私たちは相手の欲する物を与えるのが愛だと思いますが、それは間違いです。上の聖書箇所でペテロは施しを期待する男性に対し、施しではなく、いやしを与えました。それによって男性は神を賛美し、礼拝するようになりました。もし、ペテロが彼に施しをしていたら、彼は神を賛美し、礼拝することはなかったでしょう。聖書が言う「愛」とは、人が神に近づく手伝いをすることです。何をしたかではなく、結果としてその人が神に導かれたなら、その人を愛したことになるのです。
『弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 39章22〜23節)
聖書で「愛する」とは、まだ神様のことを知らない人に対しては、福音を伝えることです。福音(グッドニュース)とは、イエス・キリストが私たちの罪を無条件で赦してくださったこと、そして永遠のいのちを与えられたことです。
『では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 9章18節)
日本語の聖書では「愛」と訳されている言葉ですが、原文では3つの言葉に分けて使われています。一つ目は「エロース」で、自分自身の欲望と満足のための愛であり、人が生まれたままの姿です。二つ目は「フィリア」で、報酬を期待する愛です。一般的に私たちはこれを「愛」と呼んでいます。三つ目は「アガペー」で、報酬を期待しない愛です。この箇所にも、「報酬を求めないで与え」とあるように、聖書は報酬を求めずに愛せよと教えています。
表面上は同じ行為をしていても、その愛が「フィリア」であるか「アガペー」であるかは、心に何が生じたかによって分かります。「こんなに相手のことを思っているのに分かってくれない」という思いが生じているのなら、あなたの愛は報酬を求める愛(フィリア)です。互いに報酬を求める愛で愛し合い、その往復運動がうまくいっているときはよくても、そのバランスが崩れると、問題が生じます。さばく思い、ねたみ、支配といった苦い物が心にあるのは、報酬を求めていたからです。
また、私たちは愛の「量」を問題にしますが、重要なのは「量」ではなく「方向」です。「エロース」は矢印が自分だけに向いています。「フィリア」は矢印が自分と相手、双方向に向いています。「アガペー」は創造主(神)から自分へ、そして自分から相手へと向いています。愛は自分から生まれるのでなく、神から出たものを受け、相手へと流していくものです。ですから、無理して何かをするのではなく、自分にできることをすればよいのです。
愛することがよく分からなくなったら、神と自分の関係を思い出しましょう。そして、その関係を人との関係に適用すればよいのです。神と私たちの関係は次のような関係です。
1.神は私たちの自由意志を尊重する
神は私たちを強制するのではなく、与えた自由意志を尊重してくださいます。ですから、私たちも相手を支配してはいけません。
2.神は私たちと共に生きている
私たちの知らないところで、神は補い、助けてくださっています。私たちはお互いに体に例えられます。体の器官は互いに補い、報酬を求めません。また、報酬がなかったと言って仲違いすることもありません。しかし、私たちは人との関係で報酬を求めるので関係が崩れるのです。
3.神は私たちを尊敬している
神は私たちを「高価で尊い」と言われました。また、すべての人が自分より優れている所を持っており、私たちは学ぶことができると次の箇所に書かれています。
『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12章10節)
私たちがこのように人を愛するなら、人々はそこに神の愛を見るのです。 |