『そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。』(新約聖書 使徒の働き 1:12〜14)
イエス様が昇天された後、弟子たちはまず、祈りに専念しました。地の果てまでも主の御名を伝えるという使命を受けた彼らは、すぐに立ち上がって何かをするのではなく、とどまってただ祈っていたのでした。これは私たちにとっても重要なことです。何をするにも、自分の力で始めるのではなく、まず主に祈り求めること、そこからすべてをスタートさせましょう。また、「みな心を合わせ」とあるように、ひとりでだけでなくともに祈ることも大切です。
『そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。・・(中略)・・
実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』
ですから、・・・いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」』(新約聖書 使徒の働き
1:15〜22)
みなで祈っていたとき、ペテロに一つの思いが与えられ、彼は語り始めます。それはユダの裏切りのために空いている使徒職を誰かに引き継がせることでした。ユダの裏切りは、弟子たちにとっての汚点です。しかし、彼はまずそれを明らかにすることから話し始めました。人はとかく汚点を隠し、誰がやったか分からないようにしますが、それは責任を問われ、罰せられるからです。航空機事故が起きた場合、米では免責というシステムがあり、パイロットは状況を細かく説明することによって責任を問われません。それは、事故の再発を防ぐためです。同じように神様は私たちが罪を告白するとき、その罪をゆるしてくださり、そのことで私たちは同じ罪から守られるのです。
『そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。』(新約聖書 使徒の働き 1:23〜26)
ペテロの心に弟子を加えるという願いが起こり、彼はそれを語り、さらに祈り、神様の用意された答えを見出しました。この箇所から、二つのことを教えられます。
一つめは、神が心に願いを起こされるとき、そのための用意がすでにあるということです。加えられるべき弟子は備えられていました。また、モーセという人物からもそのことを見ることができます。モーセにイスラエルの民を約束の地へ導くという願いが与えられたとき、神様は彼にそのことを行なう備えを与えておられました。彼は王宮から出て砂漠で40年間過ごしていました。そんなモーセが指導者なら、見知らぬ土地を進んでいくのも大丈夫だと、イスラエルの民は安心してついて行くことができたのです。彼がずっと王宮に住み続けていたら、そのような信頼は得られなかったでしょう。
二つめは、用意されているものを見つけるということです。ペテロは弟子を選ぶに当たって主に祈ってくじをひきました。だからくじを引くべきだということではなく、重要なのは彼が最終的判断を主に委ねていることです。私たちは自分の願いに対する答えを主に委ねているでしょうか。委ねると言いながら、私たちは自分の願いに対する自分の答えを持っていて、主の答えを望んでいないことが多いのです。
『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』(旧約聖書 箴言 16:1〜3)
委ねるという行為には次の3つのパターンがあり、状況に応じて、それらを使い分けます。
1. 御心でなければ止められると信じて進む
神様は私たちが御心とは違う方向に行けば必ず止めてくださいます。ただし、止められたのか、乗り越えるべき試練にぶつかったのか、判断しなければならないときがあります。それは、客観的状況と心に平安があるかどうかを考え合わせて判断する必要があります。もし止められたのなら、それを受けて方向転換しなければなりません。
2. 自分より権威ある人の判断に従う
信徒であれば牧師先生の判断に従うということです。本当に委ねているのなら、その判断に従うことができますが、牧師先生に相談するとき、すでに自分の答えを持っている方がいます。自分の答えと違う判断には従えないというのは、委ねているとは言えません。
3. 御心は必ず実現するので、待つ
神様の御心は、私たちの行ないにかかわらず実現します。そのことを信じて、つぶやかずに待つことが必要な時もあります。しかし、つぶやかずに待つことは、一番の苦痛かもしれません。
上の3つのどれも、神を信頼していなければできません。神を信頼すると言いながら、自分で用意した答え以外いやだと心に決めているのなら、それは信頼していないのです。そして答えを見出すことが困難になるでしょう。しかし、自分の答えもすべて神に委ね、神の判断に従うとき、その計画は揺るがないものになります。 |