『そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。』(新約聖書 ルカの福音書 24:32〜43)
イエスさまと出会った2人の弟子が仲間のところへ戻ると、イエスさまの復活の話題で持ちきりでした。そんな時、イエスさまご自身が現れます。それなのに彼らは幽霊でも見ているかのように驚き、まだ疑っていました。神様は私たちに信仰のテストをされます。本当に神様を信じているかというテストです。この時もイエスさまは弟子たちをテストされたのでした。しかし、弟子たちは仲間の話を聞いても、実際にイエスさまを見てもなお、信じようとしませんでした。
同じように神様は私たちにも信仰のテストをされます。それは具体的には次の3つのことを見るためです。
1.どんな状況でも神様の約束を信じるか
神様の約束を信じて何かを始めるのですが、なかなかうまくいかないことがあります。そんな時でも神様を信じるかどうか、神様はご覧になっています。
2.どんな状況でも人を愛するか
人は、自分がつらいのは誰々のせいだと人を憎みます。確かに人がつらい原因を作ることはあります。しかしだからと言ってその人を憎んでいいと神様は言っていません。神様が私たちに与えられた最も大切な2つの戒めは、神を愛することと人を愛することです。あなたは確かに傷ついたでしょう。しかし、あなたは自分の心にこのように問う必要があります。「私はその相手を愛することができたか?」
3.悔い改められるか
神様の約束を疑う、人を愛せない・・・といった罪はみな犯すものです。そういった自分の罪に気づき、悔い改められるかどうか、それを神様は見たいと願っておられます。
神様はこのように私たちにテストを出されますが、そのことで私たちをダメな者としたいのではありません。神様はこのテストをパスできるように私たちのレベルにあわせて導いてくださいます。また、私たちに解けないようなテストを出されることもありません。疑い続ける弟子たちに対しても、イエスさまは忍耐強く信じられるように語り、体を触らせ、さらに食事をされました。神様は次の御言葉にあるように、私たちが信じられるように、テストをパスすることができるように、助けてくださるのです。
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一
10:13)
テストを受けるに当たっての注意事項があります。それはこの御言葉の前後に書いてあります。
1.つぶやいてはいけない
『また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一
10:10,11)
神様は必ずテストの答えへと導いてくださいます。もしつぶやけば後になって後悔します。
2.自己否定しない
『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』(新約聖書 コリント人への手紙第一
10:12)
倒れないようにというのは、自己否定しないようにという意味です。テストの中で、物事がうまくいかないように見えるとき、自分をダメだと思いがちです。それが進むと自殺に至るのです。しかし、それは神様の思いと正反対の思いです。神様は私たちを何かができるできないにかかわらず無条件に愛しておられるのですから。神様の思いを否定すると人はつらくなります。私たちは神に造られた価値ある者です。それを否定してはいけません。
3.神を第一にする
『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。』(新約聖書 コリント人への手紙第一
10:14)
偶像礼拝とは、神様以外のものに頼ることです。つらいとき、心の痛みを和らげるために人はいろいろなものに逃げます。快楽、仕事、異性・・・。神様ではなく、それらのものによって安心を得ようとすることは偶像礼拝です。試練の時こそ、そういったものに逃げず、神様を第一にしましょう。
『さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。・・・』(新約聖書 ルカの福音書 24:44〜48)
ようやくイエス様の復活を信じることができた弟子たちに、イエス様は聖書のことばを悟らせるために彼らの心を開かせます。神様の最終的願いは、私たちがただ神様を信じるだけでなく、御言葉を悟ることです。それは、試練からの脱出とともに与えられる神様の答えです。パウロは自分の病についていやしを祈り求めていましたが、いやされませんでした。しかし、それを通し御言葉の悟りという神様の答えをいただきました。神様が彼に与えたかったのは、その悟りだったのです。病が癒されるという答えもあります。状況が具体的に解決することももちろんあります。しかし、神様が最も与えたいものは、御言葉の悟りです。
イエス様が弟子たちの心を開いて語られた御言葉を通し、彼らはかつて聞いていた御言葉をここではじめて理解することができました。復活という現象を御言葉と結びつけて理解することができたのです。これが悟りです。私たちも御言葉を聞いただけでは悟っていません。体験が御言葉と結びついて初めて悟るのです。
イエス様は御言葉を悟った弟子たちに対し、あなたがたはイエス様の復活の証人であると言われました。私たちもまた自分が悟った御言葉の証人です。自分が悟ったことを伝えることから伝道がスタートします。ペテロが最初に人々に語ったのは、イエス様が復活されたということでした。自分が悟ったことを伝えるのですから、伝道を難しく考える必要はありません。また、神様は私たちが証人となるために、御言葉を悟らせてくださいます。
『・・・さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。』(新約聖書 ルカの福音書 24:49〜53)
イエス様は弟子たちに、すぐに伝道師に行きなさいとは言われませんでした。力を着せられるまで、とどまっていなさいと言われました。私たちには、力を蓄えるときが必要です。やみくもに走り続ければいいというものではありません。クリスチャンだから奉仕をいっぱいしなくてはいけない、こうしなければならない、というのは間違いです。祈って、賛美して、御言葉を求めて、そうしているうちに神様が私たちのうちに力を蓄えさせてくださいます。そして、時が来ると、神様ご自身が私たちを押しだし、何かをさせてくださいます。 |