『大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」』(新約聖書 ルカの福音書
23:26〜31)
イエス様が十字架に付けられることを悲しむ人々に対して、イエス様は自分のために泣きなさいと言われました。それはなぜでしょうか。イエス様は続けて終わりの時のことを言われます。終わりの時は、私たち人間にとって、神の国に行く者とそうでない者とに分けられるときです。もしイエス様を救い主として信じていないのなら、それは神の国に行く用意ができていないことになります。その身の上を悲しむべきだと主は言われるのです。
『ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。』(新約聖書 ルカの福音書
23:32〜38)
人々がついにイエス様を十字架につけ、侮辱の限りを尽くす心痛む場面です。ここから、社会問題であるいじめについて考えてみたいと思います。子どもに限らず、大人も誰もが、いついじめに遭遇してもおかしくありません。その時、いじめの原因を分析したり、対策することだけでは、問題の解決とはなりません。いじめによる心のダメージからどう立ち直るかということを知っておく必要があります。
イエス様もいわば究極のいじめを受けました。その時のイエス様の対応を見てみましょう。イエス様はこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様は自分を十字架に付け、あざける者たちのために祈りました。このことは重要なことです。なぜなら、「敵を愛しなさい」というイエス様のことばを実行するとき、私たちの心は守られるからです。いじめを受けたとき、その相手を恨み、責め続けるなら、心の痛みを大きくするだけです。むしろ、相手の祝福を祈るなら、私たちの心に神様が固い城壁をつくり、守ってくださるのです。
相手のために祈るとは、具体的にはもし相手がクリスチャンでないのなら、相手の救いのために祈ることです。相手がクリスチャンなら、ますます祝福されるように祈るのです。子どもがいじめを受けたときも、相手のために祈り、敵を愛することを教え、その心が守られるようにする必要があります。
『十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』(新約聖書 ルカの福音書
23:39〜43)
ともに十字架に付けられた罪人のひとりに対し、イエス様は彼の救いを宣言されました。それは、彼がここで語った言葉によって、彼がイエス様を神の子として認めている信仰を見たからです。彼は十字架に付けられているのですから、社会においてはゆるされない罪を犯したことがわかります。しかし、神様はここでも救いは行ないではなく信仰によることを示しておられます。クリスチャンはイエス様を信じてもなお、自分の行ないが良くないと救われていないのではないかと思ってしまいがちです。しかし、行ないはこの地上で少しずつ良くなっていきますが、完全にはなりません。私たちが完全になるのは天に移されたときです。行ないができないからと言って、救われていないと思うのは間違いです。
『そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。』(新約聖書 ルカの福音書
23:44〜46)
イエス様が息を引き取るとき、神殿の幕が真二つに裂けたとあります。神殿には聖所と至聖所という場所があり、至聖所には大祭司だけが、身を清め、いけにえを捧げた上で入り、神様と交わることを許されました。至聖所と聖所を隔てる幕が裂けたということがどういうことなのか、次の聖句に示されています。
『「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」』(新約聖書
ヘブル人への手紙 10:17〜20)
つまり、かつては大祭司だけが直接神様と交わることを許されていましたが、イエス様を通して誰もが神様と直接交わることができるようになったのです。イエス様がその道を開いてくださったのです。
イエス様は息を引き取られるとき、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言われました。この言葉に、イエス様のメッセージが込められています。それは次のことです。
1. 人は神に委ねなければどうしようもない存在である
赤ちゃんは母親に身を委ねなければ生きていけません。そのように、人は皆、神様によって生かされている存在であり、神様なしには生きていけないのです。
2. 人生はゆだねることを学ぶ場所
委ねるとは、神を信頼することです。私たちが問題にぶつかったとき、本当に助けになるものは何でしょうか?それはお金ではなく、信仰です。神への信頼=信仰が最高の財産となるのです。
3. 身を委ねる対象は「父(=神様)」である
私たちが身を委ねる対象は何なのか。決して見失ってはなりません。 |