先日、いじめを苦に小学生が自殺したというニュースがありました。いじめを受けた子どもに対してどのように対応したらよいのでしょうか。これからそのような状況に直面したとき、私たちは聖書に即した対応をしていく必要があります。また、これは私たち自身が人間関係の問題に直面したときも同様です。対応には次のようなステップがあります。
1.状況への配慮と心の受容
まずは応急処置が必要です。いじめを作り出した状況の改善をはかることと、いじめを受けた子どもの心を受容することです。ただし、心の受容はあくまでも応急処置であり、問題解決ではありません。まずは心を落ち着かせることが先決であり、そこから次のステップへ進むことができます。
2.ゆるす
聖書には、「さばいてはいけません」「ゆるしなさい」とあります。神様の教えは一貫してどんな相手もゆるすように教えています。ですから、子どもの心が受容されたら、次にいじめた相手のことをゆるすよう教える必要があります。ここまで行けば、かなりの進歩ですが、まだ根本的解決に至ったわけではありません。
3.愛する
「ゆるす」という言葉の裏には、「相手を許せない」という思いが隠れています。聖書には「あなたの敵を愛しなさい」と書かれています。たとえ自分をいじめた相手でも、神様はいつも「愛しなさい」と言われます。しかし、私たちは自分によくしてくれる人を愛することはできても、自分に悪いことをする人を愛することはなかなかできません。ここで重要なのは、そのような「人を愛せない自分」「神様のことばに従えない自分」を素直に認めることです。人を愛せないことはどんな理由があっても、神様の目から見ると「罪」です。この罪を神様の前に認め、悔い改めるとき、その人はゆるされ、本当のいやしが訪れます。
子どもに限らず、人は皆、人間関係において人の言葉や態度に怒りや憎しみ、人(自分も含め)を責める思いを持ちます。そして、相手や状況が変われば問題は解決すると思いますが、それは解決ではありません。問題はいつも神様と自分の間にあるのです。ですからそこを対処して初めて根本的な解決が訪れます。
今日の箇所も、神様と自分の関係が最重要であることを示すことが書かれているので、見ていきましょう。
『それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。』(新約聖書
ルカの福音書 22:35,36)
以前は何も持たずに伝道に行くように言われたイエス様ですが、今は持って行きなさいと言われました。それは文字通りの意味ではなく、迫害に対して備えをする必要があることを指して言われたのです。
『それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。』(新約聖書
ルカの福音書 22:39〜44)
イエス様は十字架に向かって行くにあたって、苦しみもだえながら祈られました。この祈りは、十字架にかかることを避けたいと言っているように聞こえますが、そうではありません。ではイエス様は何を取りのけてほしいと願っているのでしょうか。それは、その前に語られた言葉を通して分かります。
『あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」』(新約聖書 ルカの福音書 22:37)
イエス様にとって十字架にかかること、死ぬことはつらいことではありませんでした。イエス様は神様であり、3日後に復活することが分かっていたのですから、当然です。人は死んだら、神様を信じているかいないかによって、神の子かそうでないかに分けられます。神様を信じない人は罪人として永遠の滅びへと向かいます。この御言葉に「罪人たちのひとりに数えられた」とあるのは、イエス様がもはや神の子として扱われず、造り主である神様との関係が断ち切られたことを意味します。イエス様にとって、「取りのけてください」と願うほどにつらかったこと、それは、死ぬことや罰を受けることではなく、神様との関係が全くない世界に一時でも行かなければならないことでした。
このイエス様の苦しみを通し、神様との関係を保ち、築いていくことが私たちにとっていかに大切なのかを見ることができます。神様を信じることは愚かなことで、弱い者がすることだと言う人もいます。しかし、信じることなしに人間社会は成立しません。何かを契約するときは相手を信じるからこそ契約できるのであり、交通機関を利用するときは、時刻表通りに来ると信じて利用しています。人は皆何かを信じて生きているのです。何を信じるかによって、その人の人生が決まります。信じるなら、最も信頼できる方、私たちを造られた神を信じることが最も理にかなっているのではないでしょうか。
『イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」』(新約聖書 ルカの福音書 22:45,46)
誘惑はまず思いに来ます。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とイエス様が言われたのは思いをコントロールするためです。祈りによって私たちの心は神様に向けられていきます。思いをコントロールするためには、完全に神様に向かうまで祈り続ける必要があります。
『イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:47,48)
12弟子のひとりであるユダがイエス様を裏切らなければイエス様が十字架にかかることはなかったのだから、ユダは神様の計画を助けたのではないかと言う人もいるかもしれません。しかし、ユダが裏切らなくても、イエス様は十字架にかかり、神様の御心は実現されていました。それは、ユダに対するイエス様の言葉の裏に、悔い改める最後のチャンスを与えようとする思いがあるからです。
一度神様を信じたなら、神様の方から私たちを切り離すことはあり得ません。しかし人は自由意志を与えられているので、自ら神様を離れることはできます。裏切りはユダの意志でした。私たちは自分で意志を選んでいるのです。神様はいつでも私たちに悔い改めのチャンスを与え、神様に立ち返ることを促しておられます。
イエス様は神様との関係が断絶することを、苦しみもだえ、血の汗を流すほどに恐れておられました。それほどに、私たちが神様との関係を保ち、築くことは何にも代え難い大切なものなのです。 |