この箇所はイエス様が十字架につけられる前の弟子たちへの最後の教えになります。私たちを苦しめるものの正体について、主は教えておられます。そのことを正しく理解することが大切です。
『また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。』(新約聖書
ルカの福音書 22:24〜28)
弟子たちは自分が一番の弟子でありたいと思い、議論していました。イエス様はそんな弟子たちに「仕える者になりなさい」と言われます。これがイエス様の最後の教えです。これまでのイエス様のメッセージの総まとめがここに含まれています。
人間の基本的欲求を思い出してみましょう。それは、自分が人よりも価値ある者に見られたい、すなわち人の上に立ちたいということです。これは、見えるものに自分の価値を置く見方であり人間のものの見方、すなわち肉の物差しです。一方、神様の物差しは、見えない神様を信頼する見方です。
イエス様が言われるように、仕える者になるには肉の物差しが邪魔になります。肉の物差しは目に見えない神様よりも、目に見えるものを信頼するものです。肉の物差しを言い換えると「不信仰」(もっと言うなら「偶像礼拝」)と言います。「仕える者になりなさい」というメッセージの裏に込められたイエス様のメッセージは「不信仰を捨てなさい」というものなのです。
肉の物差しを持ったまま、主に仕えようとすれば必ず行き詰まります。ですから、主はこれを問題にされるのです。このことをさらに理解するために次の箇所を見てみましょう。
『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」』(新約聖書
マタイの福音書 4:35〜40)
イエス様と弟子たちはイスラエルの地域を伝道して回っていました。その際、移動のために湖をよく渡っていました。その時の出来事です。
私たちはイエス様を信じてクリスチャンになりました。それはちょうど神様とともに舟に乗っているようなものです。そして時々、突風のような困難にぶつかります。私たちは困難にぶつかりつらくなると、たいてい誰か(何か)のせいにします。自分が怒っているのは相手が悪いと主張し、相手を変えようとします。
しかし、たとえ相手が変わっても、自分の中に平安が訪れないことに気づいた人は、自分がつらいのは、相手のせいではなく別のところに原因があるのではないかと気づきます。その人は次のステージに入ります。自分を苦しめる黒幕は何なのかを探し、それが自分の物差し(見えるものに価値を置く)のせいだと気づいた人はさらに次のステージに入ります。しかし、物差しを変えようとしますが、それがうまくいきません。そのことに気づいた人は次のステージに入ります。
弟子たちが怖がったとき、イエス様は波のせいだとは言われませんでした。「なぜこわがるのか。それは信仰がないからだ」と言われたのです。私たちを苦しめる本当の黒幕は人でも物差しでもなく、神のことばを信じられないことに他なりません。イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われました。神様が行くと言われたら必ず行くのです。だから、波を見ても安心していればよかったのです。弟子たちは自分が不安になったのは波のせいだと思っていましたが、そうではありません。信仰を失ったせいです。イエス様のことばを信じられなくなったからなのです。
よく私たちは「傷ついた」と言います。確かに同情できる出来事があったでしょう。しかし、聖書は何と言っているのでしょうか。イエス様は「さばいてはいけません」「ゆるしなさい」「あなたの敵を愛しなさい」と言われました。私たちがつらいのは、私たちにひどいことをした相手のせいではなく、愛しなさいという神様のことばを信頼できず、従えなかったからです。
信仰は言われたことをただ「はい」と聞くことではありません。イエス様は聞くだけではなく、信じるなら実行しなさいとも言われます。死に対する不安も同じです。イエス様を信じる者はイエス様と同じように復活するということばを信じることができるなら、不安はなくなります。すべて、不安になる原因は、不信仰です。イエス様は言われます。「なぜこわがるのか。信仰がないのはどうしたことか。」私たちの問題は、神様のことばを信じることができないことです。不安になったとき、「私の不信仰の罪を赦してください」と祈ることができれば幸いです。いろいろな問題があるでしょう。しかし、その答えは神を信頼することです。それが信仰なのです。 |