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2006年9月17日 礼拝メッセージ
聖餐式の意味
(新約聖書 ルカによる福音書 22章1〜20節)

『さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。』(新約聖書 ルカによる福音書 22:1〜6)


いよいよイエス様を捕らえる動きが具体的に始まります。ここで、ユダにサタンが入ったという記述がありますが、まずその説明をします。私たちの体の中には神が住まわれる宮があります。一旦イエス様を信じたら、神様は私たちのうちに住まわれ、決して出て行かれることはありません。救いは完全であり、私たちはずっと神様と共に生きるのです。しかし、ユダにはサタンが入りました。救われた者にサタンが入るということはあり得ません。つまり、ユダはイエス様を信じていなかったのです。彼はイエス様をお金で売りました。彼の目的はお金を得ることであり、そのためにイエス様を利用したのでした。


『さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。』(新約聖書 ルカによる福音書 22:7〜13)



イエス様は弟子たちに過越の祭りの準備をさせます。ここの記述を通しても、イエス様は弟子たちに神様の備えがあること、神様に信頼することを教えておられます。過越の祭りとは、イスラエルの民がエジプトから助け出されたことを忘れないために年1回行われる行事です。イエス様は過越の食事を弟子たちとできることを喜んでいました。それは、この後イエス様にとっても弟子たちにとっても苦難の時となりますが、同時に約束の成就の時でもあるからです。


『さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』(新約聖書 ルカによる福音書 22:14〜20)



イエス様は過越の食事に新しい意味づけをされました。それを受けて今日私たちも聖餐式を守っています。その意味を正しく理解することが大切です。とかく人は儀式を守ることを重要視し、本来の意味から逸れていくからです。


イエス様はパンを与えてこれは私のからだであると言われました。イエス様のからだを食べる−それは、神様と共に生きることを意味します。それは、私たちがキリストの体の一部であることを意味します。イエス様の名前はインマヌエルと呼ばれるとありますが、これは「神がいつもともにいる」という意味です。


また、杯はイエス様の血であると言われました。私たちを赦すために流されたイエス様の血です。このことは、私たちが罪を赦されていること、自由であることを表しています。私たちは自分が罪人だとどれくらい理解しているでしょうか。聖書では表に出る行ないではなく、悪い行ないに至る「思い」を罪と呼びます。非常に厳しい基準です。中でも最も神様が問題にするのは、自分の造り主である神様を認めないことです。しかし、これを悔い改めるなら、その他のすべての罪は無条件に赦すと言われるのです。


イエス様は私たち人間に新しい契約を与えてくださいました。それは信仰による救いです。救いの唯一の条件は自分を造った神様を信じることです。そして、私たちの人生はどこまで神様を信頼できるかの訓練であると言えます。私たちが「問題」だと思うのは、自分では解決できないことです。そして、心の奥につらさがあります。なぜつらくなるのでしょうか。そのメカニズムを次の例えでわかりやすく説明します。


釣りバカ日誌に登場するハマちゃんは、全く出世できず、左遷ばかりで、普通ならつらい状況です。しかし、彼は左遷と聞くたびに目を輝かせます。「あそこでは○○が釣れる」とわくわくするのです。彼の考え方の物差しは「釣り」だけです。ですから、釣りさえできればうれしく、つらさを感じないのです。


では、私たちが持つべき物差しは何でしょうか?それは「信仰」です。問題が起こっても、神様のことばを信頼できるなら、つらくなりません。つらくなるときは、神様を信頼できないからです。それが私たちの本当の問題であり、悔い改めるべきことなのです。私たちが信仰の物差しによって生きるのでなければ、表面的問題が解決しても、信仰の問題は解決しないまま残ります。信仰によって生きる。これがイエス様が与えてくださった新しい契約です。イエス様を救い主として認め、罪赦された者として、どんな状況の時も神様を信頼し続けることが、私たちの人生そのものです。



神木イエス・キリスト教会


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