メッセージ集TOPへ
2006年8月20日 礼拝メッセージ
エルサレム入城
(新約聖書 ルカによる福音書 19章28〜48節)

『これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。』(新約聖書 ルカによる福音書 19:28〜34)



イエス様は十字架にかかるためにいよいよエルサレムに近づく場面です。エルサレムに入るにあたって、イエス様はろばを連れて来るように弟子に言いますが、それは旧約聖書の中でそのように預言されているからです。(旧約聖書 ゼカリヤ書9章9節参照)


ここで、聖書について少し説明します。聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせたものです。旧約聖書には救い主が来るという約束が書かれています。イエス様が約束の救い主であると信じる人をクリスチャンと言います。そしてイエス・キリストによる新しい契約が書かれているのが新約聖書です。パリサイ人をはじめとするユダヤ人たちはイエス様を約束の救い主とは認めませんでした。そのためにこの後の箇所でも反発しているのです。


さて、救い主がエルサレムへ入城されるという華々しい場面であるにもかかわらず、なぜイエス様はろばに乗るのでしょうか。ここから神様のものの見方を学んでいきましょう。


1. 弱いものを大切にする

普通、偉い人が乗るのは、ろばよりも馬だと考えられます。ろばは馬にくらべると見栄えのしない、弱く、役に立たないように見えます。私たちは見栄えのする、強く、役に立つものを大切にしますが、神様の考え方はその逆です。


2. 弱いものを用いる

弱いものというのは、能力がないという意味ではありません。自分が取るに足らない弱いものであると知る人のことです。自分に力があると思っていると、神様の働きを妨げるからです。人は外見で判断しますが、神様は見えるところには全く興味がありません。


3. 神様が用いたくて用いる

ろばの中でも「誰も乗ったことのない」ろばです。誰も用いない、経験のない、若く弱いろば、神様にはそれが必要だったのです。神様の働きに私たちの側の経験、能力は関係ありません。このろばのように用いられるのはたった1回かもしれません。それがいつなのか分かりません。その時に用意ができていることが重要です。神様にとって不要なものはなく、すべてに意味があります。ですから自分で勝手に判断してはいけません。


人のものを勝手に持って行こうとして「主がお入り用なのです」とは、すごい論法です。しかし弟子たちはイエス様の言われるとおりにし、ろばの持ち主もそれならとろばを渡しました。これは神様の権威を表すと同時に、神様の御心を実現するためには、素直に従う信仰が必要であることを示しています。御言葉よりも自分の思いを優先させないようにしましょう。


『そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」』(新約聖書 ルカによる福音書 19:35〜40)



人々はエルサレムにイエス様をお迎えするにあたって賛美しました。賛美の役割は、心の中に神様をお迎えし、神様に近づくことです。私たちが賛美をするとき、私たちの心は神様に近づいていきます。

そんな光景の中、パリサイ人達は文句を言いました。それは人々がイエス様を王として迎えたからです。先にも触れたように、彼らはイエス様を救い主として認めていませんでした。彼らに対してイエス様が言った言葉は、賛美をやめさせても、イエス様が救い主なる神様であるという真理は曲げられないという意味です。


『エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」』(新約聖書 ルカによる福音書 19:41〜46)


イエス様はエルサレムを見て泣かれました。「平和」とは神様との和解を意味します。イエス様が救い主として来られ、人々と神様との和解の時が来たのに、神の宮を守る祭司、律法学者たちを始め、都の中に人々はそのことを信じず、全く用意ができていませんでした。それどころか、神の宮を商売のために使っていました。彼らの不信仰を見て、イエス様は泣かれたのです。


『イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。』(新約聖書 ルカによる福音書 19:47〜48)


彼らはなぜイエス様を殺そうと画策していたのでしょうか。表向きは「自分を神とし、神を冒涜した」という彼らのつけた理由です。しかし、本当は自分たちの立場が脅かされることを恐れたからでした。彼らは神に敬虔であるように見せかけながら、大事にしていたのは自分の立場であって、神様ではありませんでした。


では、私たちの心はどうでしょうか。私たちは神様を心にお迎えしています。しかし、心の中心には自分がいるのではないでしょうか。神様のためと言いながら、自分のために神様を利用していないでしょうか。自分を守ろうとして、抵抗している私たちに、神様は心の中心を明け渡しなさいと言われます。それは私たちを守るためです。


自分が心の中心にいる人は、人のアドバイスに耳を傾けません。エバは善悪を知る木の実を食べてしまいましたが、その時、罪を犯さずにすむ方法が一つありました。それは、自分が記憶している神様の命令が正しいかどうか、夫に確認することでした。私たちも、どうしたらいいか分からないときには、神様に聞き、また牧師先生、教会スタッフ等に確認すべきです。そのことで、私たちは守られるのです。



神木イエス・キリスト教会


神奈川県横浜市青葉区新石川4-22-7
電話:045-914-5455 ファックス:045-914-5508
Email:info@shiboku.net

| HOME | 教会紹介 | 集会案内 | 会堂紹介 | 地図 | メッセージ集 | NOAHの活動 | ENGLISH |