『イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」』(新約聖書 ルカによる福音書
18:15〜17)
子供と大人の違いはどこにあるでしょうか。見た目を別にすると、子供は立派な行ないができませんが、論理や理屈を乗り越えて信じることができます。それに対して大人は行動が立派ですが、論理や理屈を越えて信じることができず、苦しみ悩みます。子供は神様を素直に信じることができますが、大人は理屈で理解できないとなかなか信じることができません。しかし、神様のことを理屈で理解することはそもそもできません。
理屈で理解できる神様だとしたら、その神様はあなたが本当に助けを求めるとき、助けることができるでしょうか。助けが必要なときというのは、その状況や問題があなたの理解を超えているときです。人間の理解を超えた神様しか、その問題を解決することはできません。神様のことを理解できないからと言って拒絶するのではなく、素直に信じることが大切です。
『またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。』(新約聖書 ルカによる福音書 18:18〜23)
私たちの心はどこに存在しているでしょうか。イエス様はこう言っています。
『あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。』(新約聖書 ルカによる福音書 12:34)
大事なもの、犠牲を払ってもいいと思うもの、ここでは「富」という言葉に言い換えますが、富のあるところに私たちの心はあります。
金持ちの役人は、永遠のいのちを得るために何をしたらよいかとイエス様に尋ねました。それに対して、イエス様は十戒のことばを言われたので、彼はそれなら自分はもうできているから大丈夫だと喜びました。しかし、イエス様は続けて彼に財産全部を捧げなさいと言われました。彼はそれができず、悲しくなり去っていきました。イエス様はなぜ彼にこのように言ったのでしょうか。そこには次のような意味があります。
1. 心が神に向いていないことを示すため
彼は律法を守り、行ないにおいて立派でした。しかし、神様に財産全部は捧げられないと思いました。それは彼の心が神様にではなく自分にあったからです。彼の立派な行ないも、純粋に神様のためではなく、自分が良く思われるためでした。そのことをイエス様は彼に気づかせたかったのです。
2. 自分の弱さに気づかせるため
イエス様は彼ができないことを敢えて言われました。それは、彼が自分の弱さに気づくためでした。自分はすべての律法を守っていると自負し、自分に弱さがあることを彼は知りませんでした。弱さに気づかないと、人は自分の論理の中で生き、神様に耳を傾けません。しかし、自分の限界を知ると、素直に神様を受け入れられるようになるのです。
3. 行ないでは救われないことを示すため
救いは人がどんなに立派な行ないをしても得られません。立派な行ないをする人も、きよい神様から見れば罪人です。自分の罪が分からなければ、神様を知ることはありません。神様は罪人の私たちに、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる道を与えてくださいました。ですから、必要なのはあなたの行ないではなく、神様を頼る信仰だと、イエス様は彼に言いたかったのです。
彼は自分には捧げることができない弱さがあることを知りました。そこまでは良かったのですが、その後、神様にあわれみを求めることをせず、去っていってしまいました。神様からあわれみを受けるチャンスを失ってしまったのです。彼は行ないができないことが問題だと思ってしまいました。私たちもこの役人と同じように考えてはいないでしょうか。しかし、問題は行ないができないことではなく、自分の限界を知り、神様に頼らないことです。
『イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」』(新約聖書 ルカによる福音書
18:24〜27)
信仰は神様を信頼することです。神様が愛の方であり、私たちを幸せにしてくださる方であることをどこまでも信頼することです。見えないものを信頼することとも言えます。それに対し、富というものは私たちを見えるものに信頼させます。そしてそれに信頼すればするほど不安が増し、要求が増し、さらに手に入れようとし、ますます不安を増幅させるという悪循環に陥ります。富は、信仰を妨げる最大のものです。
イエス様は金持ちが救われるのは難しいと言われました。今日、富を持つ人は多くいます。しかし、神様なら救うことができると、どんな人に対しても希望を持つことができることを示してくださいました。
『すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」』(新約聖書 ルカによる福音書 18:28〜30)
ペテロにとって全財産を捧げることは難しくありませんでした。それで彼は誇らしげに言っているのですが、人それぞれ弱点が違います。彼には別の弱点があり、それでイエス様を裏切ってしまいました。どんな人も、その人にとって厳しい状況に追い込まれたとき、罪を犯してしまうものです。皆同じなのです。また、このイエス様のことばは、永遠のいのちを得るために家族を捨てなければならないという意味ではなく、優先順位のことを言っています。自分の言葉や思いではなく、神様のことばを第一にすることです。
私たちは自分の思いを優先させるので苦しみます。しかし、その時に神様のもとに戻ることが大切です。失敗や罪が問題ではないのです。それを通して神様のもとへ行かないこと、神様を信頼しないことが問題なのです。神様は私たちの心に、私たちが罪人であること、神様が求める行ないをできないこと、こんな私たちが救われるのは、富でも自分の行ないでもなく、ただ神様のあわれみによることを気づかせます。神様からのノックがあったとき、神様にあわれみを求めれば道が開かれます。何度でも、神様に立ち返り信頼しましょう。 |