『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』(新約聖書 ルカによる福音書 18:9〜14)
パリサイ人は、自分の行ないを誇る祈りをしました。確かにその行ないは立派ですが、神様はそれを退けました。行ないの目的が間違っていたからです。パリサイ人の行ないの目的は、自分を義とするためでした。自分の能力や行ないで自分の価値をはかる「肉の物差し」が、私たちを苦しめる根本的原因です。
そもそも私たちが救われたのは、行ないではなく神様の恵みによるものでした。しかし、年が経つとともに、行ないが良くなければクリスチャンとして認められないと思い、行ないで自分を義とするようになっていないでしょうか。パウロも言っています。
『御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。』(新約聖書
ガラテヤ人への手紙 3:3)
では、行ないの本当の目的とは何でしょうか。
1. 自分の無力さを知り、神様にあわれみを求めるようになるため
神様の御言葉を実行しようとすれば、それが本当に難しいことが分かります。イエス様は御言葉の中でも一番大切なのは「神を愛しなさい」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の2つであると言われました。しかし、これを実行しようとするとき、人を愛せない自分にぶつかります。愛せないどころか、人に腹を立てたり、嫉妬したり、そういった罪人である自分を意識するとき、私たちは神様にあわれみを求めるしかありません。しかし、それが神様の意図されたことでした。
2. 試練に出会うため(信仰の成長のため)
神様はいつも、私たちの信仰の成長を望んでおられます。信仰の成長のために欠かせないのが実は試練なのです。御言葉を実行すれば必ず試練にぶつかります。その時、信仰を働かせずにはいられないからです。種まきのたとえの中で、種の成長を妨げるいばらが出てきます。いばらは、世の心遣いと書かれていますが、それは、人から良く思われるために、富や名誉を得て、それによって心の安らぎを求めようとすることです。神様は信仰の成長を妨げるいばらを取り除くのではなく、試練によって信仰を成長させることによっていばらを弱めようとされます。
3. 被害を防ぐため
神様の前では、人を憎んだら殺人と同じことです。皆同じ罪人であり、他人を裁くことはできません。しかし、そうは言っても、人を憎むことと、実際に殺人をすることでは、実際の被害と罪責感が全く違います。実際の被害は最小限に抑えなければなりません。そうでなければ、ひとたび悪を行えば、いばらが生い茂り、信仰の成長する余地がなくなってしまうからです。
悪い思いを放置していると、被害が大きくなります。神様は嫉妬に駆られたカインに「あなたは、それを治めるべきである。」と言われました。私たちには悪い思いを治める責任があります。
クリスチャンだからこうすべき、あるいは、してはいけないというのは、パリサイ人的考え方です。その結果、基準を満たせると誇り、満たせない人を裁くのです。そうではなく、自分の信仰にとってマイナスになるからやらない、プラスになるからやるという考え方をしましょう。パウロはすべてのことはしてもよいが、益になるとは限らないと言いました。私たちは今後、信仰の成長のために益になることを選び、成長を妨げることはしないようにしましょう。
御言葉の中で一番簡単なのは、十分の一をささげることです。これは、信仰の成長にすぐに見える効果を現します。上記の1から3に当てはめれば、捧げようとするとき、お金に執着する自分を示され、また実際に捧げると、生活するために神様に祈って頼らざるを得ません。また、捧げることで、浪費の歯止めにもなります。金銭を愛することがあらゆる悪の根であると、聖書に書かれています。十分の一を正しく神様にお返しすることによって、お金に支配される者から、お金を支配する者となるのです。
人が求めるのは変わらない平安です。それを見えるものに求めても一時的で、また他のものを求めることをくりかえします。それは着るものを変えるだけで、本質的な解決ではありません。肉(=不信仰の罪)の物差しが解決されなければ問題は解決しません。それは人にはできません。神様が信仰を成長させることにより、不信仰を封じ込めてくれるるのです。神様に向かい「主よ。この罪人をあわれんでください」と本気で神様に求めた取税人を神様は義としました。答えはそこにあるのです。
神様にあわれみを求める人は、十字架以上に大切なものはないと悟ります。神様を知識で知ろうとする人には愚かであり、経験に頼る人にはつまずきとなります。しかし、イエス様は私たちを苦しめる不信仰の罪のために十字架にかかってくださいました。そして、いつも私たちの信仰を成長させてくださっているのです。ですから、悪を避け、いつでも神様に向かい「主よあわれんでください」とあわれみを求めつづけましょう。 |